今回の列伝は「武田信玄SP」。戦国最強の武将は、なぜ天下を取れなかったのか!?謙信との川中島の戦いに11年。その間、戦国の世の勢力図は大きく変わっていった・・・。信長の台頭。そして、ついに信玄は西上作戦を決行、京を目指す。天下は大きく信玄の目の前に現れた・・・
武田信玄は、甲斐国の武田家の嫡男として、現在の山梨県甲府市に生まれた。幼名、晴信。幼いころから英才教育を施され、「孫子」や「呉子」などの兵学を学び育つ。また武術にも長け、文武両道に秀でた少年だった。
16歳となった晴信は初陣を果たす。父・信虎の軍に従い、隣国・信濃にある、海ノ口城攻めに参陣した。しかし、武田軍は海ノ口城を攻め落とせず、やむなく撤退。そんな中晴信は父 信虎に殿を申し出る。わずか300の手勢で、海ノ口城を急襲し敵将の首を討ち取り、初陣を飾った。揚々と甲斐国に帰国。父に、敵将の首を討ち取ったことを報告するが、信虎から武功を褒められるどころか、「出すぎ者め」と罵倒される。この出来事をきっかけに、信虎・晴信親子の間に亀裂が生じることになる。
信玄は家督を継いでしばらくの間、父親追放の混乱を鎮めるために、自己の立場を強化しながら甲斐国内の統治にあたったが、家臣の領地拡大や領民の物資希求にこたえるため、対外侵略に乗り出さねばならなくなった。当時の甲斐国は気候変動が大きく、自然災害が続き、人々は食糧難にあえいでいた。晴信は甲斐国の守護として、国民の生活を保障する必要がある。そして、家臣達には褒章を与え続けなければならない。甲斐の国は山に囲まれており、土地も肥沃ではなかった。必然的に、他国侵略は食糧や富を入手するのに最も手っ取り早い方法であった。
信玄率いる甲斐軍は信濃の諏訪氏を攻め落としたことを皮切りに次々と信濃の土地を奪取。特に北佐久侵攻の際などは、選りすぐった5000の兵で、関東管領上杉憲政の3万の兵を打ち破り、圧勝。この際、討ち取った上杉兵の首3000をさらし、城内に残された子女を甲府に連れ帰り、売り飛ばすなど、残虐非道な行いを見せた。
ところが、信濃平定を破竹の勢いで進める晴信の前に北信濃の猛将、村上義清が立ちはだかる。村上義清は、信州でも随一の勢力を誇っており、それまでの相手とは比べようのない強敵だった。武田軍は千曲川河畔、諏訪・上田原で、村上軍と激突。勢い勇んで挑んだ晴信であったが、生涯初の敗戦に喫してしまう。複数の有能な家臣を失ったばかりか、自身も負傷するほどの惨敗であった。
その2年後、晴信は再び村上義清に挑むことになる。晴信はその屈辱を胸に、村上の居城につながる小さな出城、砥石城を攻略すべく7千の兵を率いて出陣。その標高は800メートル余り。ここを叩き潰せば、村上の本拠地である北信濃を手中にすることが可能となる。しかし、武田軍は砥石城を目指し山道を進軍するも、山の傾斜がきつく、思うように進軍ができない。また、村上軍は佐久攻めの残党を取り込んでいたため、武田軍より士気が高く、なかなか攻め落とすことがおできない。戦うどころか、城にたどりつくことすらままならない、武田軍は撤退を余儀なくされる。
しかし、これを好機とみた村上軍から追尾され、猛攻撃を受ける。武田軍は主だった武将を討ち取られたばかりではなく、1000人以上の死傷者を出してしまう惨敗にきっした。世にいう「砥石崩れ」だ。
砥石崩れの翌年、真田幸隆が調略にて砥石城を陥落させる。その後も、村上義清の本拠地である葛尾城を戦わずして落とす。天文22年、北信濃の攻略を終え新たな土地をわが物とした晴信。さらなる領土拡大を狙い、信濃の小県郡に進軍していたその時、手に入れたばかりの北信濃に敵が攻め込んで来た。その人物こそ、越後の長尾景虎、後の上杉謙信である。
21歳の時に越後を統一、信仰心が篤く、戦も負け知らずだった事から、自らを軍神 毘沙門天の生まれ変わりと信じていた。実は、村上義清が、晴信に奪われた領地を奪還するべく、謙信に助けを求めたのだった。越後のすぐそばにまで勢力を伸ばした晴信に危機感を持った謙信は、義清の要請に応えた。
天文22年9月1日。両者は激突、川中島の戦いの火ぶたが切られた。双方、8千余りの兵を率い、布施一帯に陣を敷くと互いに攻撃を仕掛けた。上杉の猛攻に、武田の城が次々と攻め落とされてゆく。反転攻勢に出た晴信は、謙信の進軍を食い止める。9月20日、武田の本陣を襲いきれないと見た謙信は、北信濃から兵を引き上げる。謙信の動きを見た晴信もまた、10月7日に退却を開始、甲府へと引き返した。
2年後、晴信は、謙信の脅威にさらされた北信濃を完全掌握するべく、善光寺制圧に乗り出す。善光寺は日本最古と伝わる阿弥陀如来を祀り、多くの信者が訪れる仏教の聖地。交通の要衝でもあるこの地を支配下に治めることで、北信濃の領民の人心を得ようとする作戦だった。調略の末、善光寺は武田方の勢力となった。すると、再びあの謙信が戦いを挑んできたのだ。晴信は、善光寺奪還を目指す謙信との戦に力を注ぐことになる。弘治元年7月、晴信と謙信は犀川を挟んで対峙する。謙信の兵8千に対し武田軍は1万2000。7月19日、「第二次川中島の戦い」が始まる。最初の小競り合いの後は、戦をすることなく、互いの出方を探る睨み合いが続いた。それは、およそ3ヶ月にも及んだ。結局、今度も決着はつかず、晴信は今川義元を仲介に、「和議」に持ち込み、戦いを終結。勝たずして、拡大した領土をそのまま維持することに成功する。
そして、弘治3年8月。第3次川中島の戦いが勃発。またもや、こう着状態が続き、結局はそれぞれの領地に引き上げることになる。すでに、川中島の戦いが始まってから、4年が経とうとしていた。
第三次川中島の戦いの後、晴信は出家し、名を信玄と改めた。信玄は戦に備え、軍師・山本勘助に、川中島の南に海津城の築城を命じた。海津城から謙信の居城までの距離およそ50キロ。上杉軍攻略のために最も適した位置にあった。加えて、傍には千曲川が流れ、水運交通が可能。物資の補給線が確保できる場所でもあった。城の築城も終わり、謙信を打ち破るべく準備をしていたその最中!永禄3年、“今川義元、桶狭間で討ち死に”。あの今川義元が、尾張の新興勢力・織田信長に討たれたのだ。戦国の世は、激動の時を迎えていた。翌年の8月、信玄の命運を左右する「川中島の戦い」最大の激戦が始まろうとしていた。
第四次 川中島の戦いを、甲陽軍鑑を元に再現してみよう。
上杉軍1万1千は、武田軍の居城 海津城をも一望出来る山、妻女山に向かい陣を構えた。それに対し、信玄は2万余りの兵を率い、茶臼山に布陣、両者は6日間に渡って睨み合った。8月29日、信玄が動いた。上杉軍の退路を断つため、全軍を、築城したばかりの海津城へと移動させる。その後両軍は、さらに10日間、対峙することになる。9月9日、信玄は緊急の軍議を開く。そこで山本勘助が、武田軍を2つに分け、上杉軍を挟み撃ちにする作戦を提案。その夜のうちに、武田軍2万のうち1万2000は、謙信のいる妻女山を目指し、移動を開始。信玄の本隊8千は海津城を出、千曲川流域の八幡原に陣を張り、待ち構えた。そこで挟み撃ちにしようというのだ。信玄は盤石の態勢で、謙信との勝負の時を待っていた。
ところが9月10日、午前4時。辺り一帯に、突然深い霧が立ちこめる。千曲川と犀川が流れる盆地、川中島特有の「川霧」という濃霧である。この川霧に包まれた信玄は、謙信の動きを知る事が出来なくなってしまう。そして午前7時頃、川中島の霧が一斉に晴れ始めた。すると、武田軍の目の前に突如、上杉軍のほぼ全軍が現れた謙信は、夜中、海津城の動きが慌ただしくなっている様子を察知。武田軍が到着するより早く、全軍を下山させていた。 武田軍は、軍を割ったため8千しかいない。しかも川を背にしていたため、逃げ場がなかった。武田軍の兵は次々と討ち取られていく。信玄自らの身も危うくなった時、間一髪で、妻女山へ向かった1万2000の兵が駆けつける。上杉軍の背後に襲いかかり一気に形勢が逆転。挟み撃ちになった上杉軍は、もはや勝機はないとみて命からがら戦場を脱出。こうして信玄は、戦には勝利したものの、上杉軍の死傷者9400に対して、武田軍は1万7500を失った。壮絶な戦いの中で、武田二十四将のうち、軍師・山本勘助は討ち死に。信玄の実の弟、武田信繁も失ってしまう。それは、あまりにも大きな代償だった。結局、11年をかけても謙信と雌雄を決する事が出来なかった。
武田信玄が、川中島で上杉謙信との戦いに費やした十年の間、戦国の世の勢力図は、劇的な変化を遂げていた。主役となったのは、新たな台頭勢力、織田信長であった。「桶狭間の戦い」で、あの今川義元の首を討ち取った信長。隣国三河の徳川家康と清洲同盟を締結。天下統一に向けて、一気に動き出していた。しかし、名門甲斐源氏の嫡流である信玄にとって、新興勢力の信長など、所詮「尾張の成り上り者」でしかなかった。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの手紙には、こう記されている。「信長がもっとも煩わされ、常に恐れていた男、それは甲斐の国の王、信玄である。」と。「天下布武」を掲げ、天下取りに邁進する信長にとって信玄は驚異。武田とことをかまえるのを避けるため、一計を案じる。「よしみを結びたい」と申し出たのだ。信玄は、この申し出を受け入れる。永禄8年(1565年)、信玄の息子、武田勝頼は、信長の養女、雪姫を妻に迎える。武田と織田は実質的な同盟関係となった。
こうして、目障りな「織田」を抑えた信玄は、いよいよ動き出す。永禄10年…信玄は今川義元の亡き後の駿河攻略に乗り出す。西に向かうためには、是が非でも今川を倒さねばならない。そして、駿河の前に広がる海と、それに伴う権益すべてを手に入れるのだ。だが、この信玄の野望に、思いもよらない男が猛反発した。今川の娘を娶っていた嫡男の義信。「今川との同盟を維持すべし」と譲らない。かたくなに拒む義信を、信玄はつい切腹へと追い込んでしまう。翌年、今川を攻略し、駿河一国を占領。念願だった「海」を手に入れた。天下取りの道は、一気に開けた。だがその年、驚きの報が届く。織田信長が第十五代将軍、足利義昭を奉じて上洛を果たしたというのだ。信長は、将軍の黒子となり、天下に号令をかけようとしている。信玄の胸に焦りが生まれた。ついに武田と織田の友好関係は破たん。そして、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたことをきっかけに信玄と信長の間に決定的な亀裂が生まれることになった。
数々の合戦を戦い抜いてきた武田信玄。その戦の先に、ようやく「天下」という一本の道が見えてきた。だが、その道を歩み始めようしたとき信玄は、もう一つの闘いを続けていた。病である。信玄を苦しめたのは「隔」と言われる胃の病だった。
元亀3年(1572年)5月、50歳となった信玄のもとに、一通の書状が届く。差出人は京の将軍、足利義昭。義昭は、信長に奉じられて将軍職についたものの、実権が信長にあることに不満を抱き、信長包囲網を築き上げようとしていた。一大勢力を築き上げた信玄にも、兵を挙げるよう協力を求めてきたのだ。天下取りへの道が一気に近づいた。将軍義昭の求めに応じた信玄の行動は素早かった。元亀3年の10月3日、2万2000の大軍を率いて、一路、西を目指す。「信玄西上」と名付けられた進軍である。打倒信長。眼前の敵は、信長と同盟関係にあった三河の徳川家康である。上洛のためには、一日も早く三河を突破する必要があった。百戦錬磨の武田軍は、徳川軍を完膚なきまでに叩きのめす。徳川家康最大の敗戦、三方ヶ原の戦いである。だがその後、病に倒れ進軍はぴたりと止まってしまう。信玄は信州・駒場でその生涯を終えた。52歳であった。
あぁ、信玄があと5年生きていたら!
これが歴史の運命ですね。
信玄が生きていたら、信長の運命も変わったろうし。
その意味で、あの川中島の10年は痛かったろうなぁ。
故郷にも戻れず、行軍の途中で死んだ信玄の
無念を思うとせつないです。