今回の列伝は豊臣秀吉SP。秀吉が本能寺の変による信長の死を知ったのは備中高松攻めの真っ最中。そこから、光秀を討つまでに要した日数はわずか11日間。天下取りに向けて突き進んだ、奇跡の11日間に一体何があったのか?秀吉の野望は日本史を大きく変えた!
天正10年6月2日。本能寺の変が勃発。その知らせは、瞬く間に信長家臣達に伝えられ、各地に激震が走った。秀吉は、備中高松にて、中国地方を治める戦国大名毛利軍と交戦中。信長の死を知った秀吉は、衝撃を受ける。しかしその心中は、複雑だった。それは信長政権の原動力、「実力主義」がこの頃には、「一族重用」の傾向が明らかになっていたから。嫡男信忠や三男の信孝を優遇し、広大な領土を与え、総大将に任命。それに比べ、信長が好んで“激戦区”に送り込んでいたのが秀吉だった。
秀吉は、重要な拠点姫路城にたどり着き、充分な軍資金と物資を得て、光秀との決戦に大きな足掛かりを得た。しかし、目指す京までは、残りあと120㎞。翌日の朝にはすぐ、出発しなければならない。しかし、強行軍がたたり、兵士達は疲弊困憊の極み。そのことを告げれば、士気が低下は免れない・・・。そこで秀吉は、思い切った命令を下す。城内にあった金800枚、銀750貫、米8万5千石分を褒賞として、ビタ一文、米一粒残さず、将兵及び、兵士たち全員に気前良くバラ撒いたのだ。
一方光秀は6月2日に本能寺で信長を討ってから、ある危機感を抱いていた。それは当時大罪とされた「主殺し」の汚名。光秀は織田家筆頭家老の柴田勝家が攻め入ると予想していた。そこで京の朝廷に働きかけ、その権威を利用し、汚名を晴らそうとする。6月7日には朝廷から勅使が到着し、京の守護を申し付けるとのお墨付きを得る。今や「光秀を討つこと=朝廷を敵に回した」と見なされかねない。光秀は朝廷を盾に有力大名たちとの同盟を図る。その一人が丹後を治める細川藤孝。光秀の三女を嫁がせ親戚関係だった両家だが、必ずや味方すると思っていた細川は信長を弔うことを名目に頭を剃り出家、光秀の頼みを断っていた。
さらにもう一人、光秀の組下大名で長年厚い信頼関係にあった大勢力、大和の筒井順慶も光秀の誘いに何度も出兵と退却を繰り返し逡巡していた。6月10日に光秀は自ら出陣し筒井に合流を促すも態度を明らかにしない。次第に焦りが生じる中、光秀の元に想定外の報が届く。それが秀吉の大返しだった。急いで兵力を固めるも、6月12日の決戦前夜、光秀の元に細川・筒井は姿を見せず、兵力総勢1万6000、一方秀吉の元には4万の兵が集結した。
6月12日、本能寺の変から10日目、圧倒的兵力を持って京へと行軍する秀吉。一方迎え撃つ光秀も智将ならではの秘策があった。それは決戦の舞台を山崎に定めるというもの。山崎は北の天王山、南の淀川に挟まれ隘路になっている。この地形を利用し、山崎の隘路の出口に、兵を一列に配し、並んでやってくる4万の大軍を次々と撃ち続ければ、少ない兵力でも互角に戦うことが出来ると考えたのだ。一方秀吉は天王山を抑えて隘路の出口で待ち構える光秀軍を脇から叩き、包囲網を崩さないと勝機はないと気が付く。決戦前夜、秀吉軍は天王山で光秀軍と前哨戦を繰り広げ、勝利を収め天王山を奪取する。
そして翌13日、秀吉は山崎に続く西国街道と、天王山の二方向から進軍する。天王山を抑えられた光秀は山の裾野に兵を多く布陣。その様子を天王山の本陣から一望していた秀吉は、手薄になっていた川付近から一気に迂回攻撃をかけ、光秀軍は脇から突かれて総崩れとなる。光秀が即席で本陣を構えた古墳からは秀吉軍の猛攻撃を物語る大量の鉄砲玉が出土。秀吉はわずか2時間で光秀との激戦を制したのである。
本当にすごい武将がいたもんですね。
今まで、秀吉の本当のすごさをわかっていなかったことがよくわかった。
センス、知恵、人心掌握、ここ一番の勝負強さ
何をとっても光秀はかなわなかった。
中国大返し、感服です!