今回の列伝は300年以上前の江戸中期、空前の健康ブームを巻き起こした儒学者・貝原益軒。その名著「養生訓」には現在に通じる心得がたくさん書かれている。単なる健康ガイドではなく、新しいライフスタイルを勧め、老いることの素晴らしさが説かれていた。85歳まで生きたスーパー老人、益軒の教えを読み解く。
今回の歴史列伝は、江戸時代の大ベストセラー「養生訓」を書いた儒学者・貝原益軒。
平均寿命40歳の時代に、その二倍以上の85歳まで生きた貝原益軒。84歳の時、日本で初めての本格的健康本として知られる「養生訓」を世に出す。そこには養生(健康)を極めるための秘訣から、長寿になるための術、さらに人生論まで書かれ、多くの人々に読まれた。
江戸時代に健康ブームを巻き起こした養生訓の誕生秘話と、知られざる貝原益軒の人生に迫る。
健康長寿で知られる貝原益軒だが、実は幼少時代は超虚弱体質だった。滅多に外で遊ぶことはなく、家の中で本を読むことが多かった。秀才として知られ、大人でも難しい算術書を解いたことも。当時は利発な子は早死にすると言われ、益軒の将来を案じた父は涙を流した。
医師の心得のあった父は、病弱な益軒に少しでも長生きしてもらいたいと自分の医学の知識を教え込む。結果、益軒は何とか成長し20歳で元服、福岡藩に仕えるが・・・藩主と合わずにわずか一年半でお役御免に。浪人となった益軒を再び虚弱体質がぶり返し、眼病や胃炎で苦しんだ。益軒は病に打ち勝つため、自ら医学を猛勉強。様々な予防法を実践して病に打ち勝つ方法を編み出した。
やがて儒学に目覚めた益軒は江戸に出て、本格的に学び始める。すると江戸幕府の儒官にその才を認められると、益軒の評判は江戸の福岡藩邸に伝わり、再出仕を果たすのだった。人生の遠回りが、益軒を学問の道に導いてくれた。
貝原益軒39歳の時、22歳年下の妻を娶る。相手は武家の娘、東軒。当時としては晩婚。ようやく掴んだ幸せだった。ところが・・・。東軒は益軒以上に病弱だった。胃腸が弱く、うつ病も患い、死線をさまようこと4回。そこで益軒は妻のために薬を処方しては、その効果を記録した。東軒の体調が回復すると、病にかからないための様々な予防法を実践した。例えば寝る前に足湯をする。血行が良くなり、ストレスの解消にもなる。古今東西のあらゆる健康法を夫婦で試し、病に打ち勝つ体となっていった。
しかし二人の間には子供ができなかった。武家の結婚は跡継ぎを残せなければ離縁となるのが当たり前。ところが益軒は「子供がいなくても二人で楽しめば良い・・・」と夫婦二人で生きる道を選んだ。益軒は東軒に和歌や書などを教える。もともと才女であった東軒は学者として名を残すまでになった。そして夫婦は共に手製のカルタで嗜んだり、琵琶を弾いたりして、仲良く暮した。
健康に留意しながら、気がつけば30年の歳月が流れ、益軒と東軒は京都へ旅行に出かける。元祖フルムーンであった。健康長寿に生きる益軒の裏には、円満な夫婦生活があったのだ。
1700年、71歳にして益軒は隠居した。40歳前後で隠居する時代にあって、かなりの高齢者。しかし益軒は衰え知らず。どこへでも歩いて出掛け、夜は執筆活動に精を出す。30冊以上もの書物を書き上げた。益軒の人生の中で今が一番充実していた。益軒は老いることの楽しさを実感していたのだ。しかし・・・世間の人々の中で老いの楽しみに気づいている人は少ない。
時は元禄時代。豊かさがあふれ、武家は一日4食の飽食となっていた。人々は酒に浸り、博打にうつつを抜かす。遊郭も繁盛した。そして欲望のままに生きた後、待っていたのは厳しい老後だった。不摂生のツケが老後に周り、体を痛め、病にかかって辛い日々を送る。「老後は苦しく、辛いもの」それが世間一般の老後に対する考え方だった。
今こそ人々に伝えなければ。そこで84歳となった益軒は筆を手に取り、健康になるための秘訣から、長寿になるための心得まで書き上げる。こうして完成したのが「養生訓」だった。
「食事は腹八分」「長い睡眠を取らない」「むやみに薬を使わない」
益軒は自分が実践して見つけた健康法を、余すことなく書き記した。また人としての生き方、考え方まで戒め、まさに人生の書といえる内容だった。そして益軒は老後の素晴らしさをこう表現する。
「老後の一日は千金に値する」
自らが経験した、健康に老いることの素晴らしさを訴えたのだ。84歳の健康長寿の老人が書いた「養生訓」は多くの人々に受け入れられ、大ベストセラーとなった。江戸に健康ブームを巻き起こした「養生訓」は、日本の長寿社会の礎として、現代に至るまで読み継がれていくのである。
「老いの一日、千金に値する」とはすごい名言!
養生訓は、単なる健康ブックではなく、哲学の書。
ぜひ読んでみたいと思います。