今回の列伝は伊藤博文。日本初の総理大臣にして、大日本帝国憲法を作った男。農家の長男として生まれ、松下村塾でも頭角を現せず、並みいる勤王の志士たちの使い走りにすぎなかった伊藤が、どのようにして明治政府の中をのしていったのか?多くの女性たちとの醜聞にまみれながらも、憲法制定にかけた執念。近代日本の礎を作った波乱の人生に迫る。
日本の初代総理大臣、そして大日本帝国憲法を起草し、近代国家の礎を築いた政治家…伊藤博文。
しかし彼には、その業績や人格までもを否定するような「悪評」が常に付きまとう。「風見鶏」、「哲学なき政治家」、そして数多くの女性スキャンダル…。果たして、伊藤博文の真実の顔とは?身分も、金も、教養さえも無かった、博文の人生を三つの鍵で解き明かす!
伊藤博文は、天保12年、現在の山口県光市で、農家の長男として生まれた。父親が、萩の藩士である伊藤家の奉公人となると、主(あるじ)の直(なお)右(え)衛門(もん)が博文の性格を気に入り、武家の跡取りとなり、長州藩士の仲間入りを果たす。立身出世を夢見た博文は22歳の時、長州藩の密命、イギリスへ密留学に志願。博文は、ヨーロッパの圧倒的な文明力を目の当たりにする。
その後、明治の新政府が誕生すると、博文は英語力を買われ、政府内で順調に出世を果たし、32歳にして閣僚入りを果たした。しかし、薩長土肥の藩閥から成る政府首脳は征韓論をめぐり意見が対立、混迷を極めていた。特に、新政府のかじ取りが任された長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通の2トップの間には不協和音が奏でられている。今こそ自分の出番とばかりに博文は、両者の結束を強めるよう、働きかける。その努力が実り、明治8年2月11日、木戸と大久保、さらに板垣退助らも集めて新体制での共闘を誓わせた「大阪会議」の開催に成功。博文は明治政府に欠かすことのできない存在となっていった。
イギリス密留学から帰国した、慶応元年。博文は藩内の急進派から、攘夷に反対する者として命を狙われ、ある日、亀山八幡宮の境内に逃げ込んだ。この時、茶屋で働く下関の芸者、16歳の梅子が博文を匿ってくれたのだ。機転の良さと、その美貌に惚れこんだ博文は、正妻と離婚し、慶応2年、梅子を妻として迎える。
「天皇陛下を除けば、おかか位のものじゃ。その他に尊敬する者は、いない」
西欧列強に比肩する立憲政治国家を目指す博文。
急務は近代国家の証し、「憲法」の制定。博文は、大隈重信、盟友・井上馨(かおる)らと協議を開始、憲法づくりを協力して進めるべく、意見の一致をみたはずだった。しかし…
2か月後、大隈が突如、独自の憲法意見書を、あろうことか直接、明治天皇に提出。2年後の議会開催など、急進的な計画を勝手にぶちまける。博文は怒り狂い、大隈の排除を画策。参議の座から引きずり降ろしてしまう。これからは、自らが憲法づくりをリードしていくしかない。博文は欧州外遊に出かけ、各国の憲法調査に全力を注いだ。日本が目指すべき憲法、議会制度について、アドバイスを求めると、ドイツ帝国の憲法学者に冷笑される。「我々は日本の歴史を知らないから、どんなアドバイスをすればいいのか分からない。」と。
目から鱗が落ちる思いを経て帰国した博文は、外国の猿真似ではなく、日本の歴史に即した憲法づくりを目指す。『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』、『大日本史』に至るまで、憲法学者達と研究し、博文が選んだのは、天皇に主権がある、立憲君主制だった。
計画から7年たった、明治22年2月11日。ついに博文の悲願だった、大日本帝国憲法、発布。それは、徳川幕府の崩壊以来続いていた混迷から脱却し、日本が近代国家へと生まれ変わった証でもあった。
伊藤博文の傑作は、
幕末維新を生き抜いて自らの力で「伊藤博文」たる
人間に成長を遂げたこと。
彼がいなければ、明治維新は完結していなかった。
いろいろな批判も甘んじて受けて、日本の近代化に
つくした稀有な政治家だったね。