#72 2015年9月25日(金)放送 日本一の玉の輿 桂昌院

桂昌院

今回の列伝は5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院。八百屋の娘から3代将軍家光の側室にまでのぼりつめた日本一のシンデレラ物語。息子綱吉が思いもかけぬ将軍就任。30年ぶりに江戸城に戻ってきた桂昌院は、将軍の母として権勢をふるい始める。彼女が目指した社会改革とは…

ゲスト

ゲスト 作家
植松三十里

玉の輿伝説

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寛永4年(1627年)、京都。お玉、後の桂昌院は、青物屋・仁左衛門の子として生まれたと伝えられる。しかし、幼い頃、父がこの世を去り、母とお玉は、世間の荒波に放り出された。農家で野菜を仕入れては、母子で荷車を押して売り歩く日々。お玉が10歳を過ぎた頃、人生の転機となる一つの幸運が舞い込む。母が、武家の名門、本庄家の飯炊き係として、職を得たのだ。働き者で器量良しの母は、その後、妻を亡くしたばかりの本庄家の当主に見初められ、後妻に迎えられることになったのだ。青物屋の娘から、武家の娘へと一足飛び。日本一の玉の輿伝説は、こうして幕を開けるのである。とはいえ、今までとは全く違う生活に、苦労が絶えなかった。座り方が違う、挨拶の仕方が違う・・・と徹底して武家の作法を叩き込まれた。そんなお玉が13歳になった頃、再び幸運が舞い下りる。ある日、お玉は本庄の父に江戸の大奥へ行くように言われる。実は本庄家が仕えていた公家の娘が、将軍家光の側室に決まり、その身の回りの世話係としてお玉に白羽の矢が立ったのだ。お玉は、不安を抱きながら江戸へと旅立って行った。

お手つき

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寛永17年(1640)、14歳となっていたお玉は慣れない大奥生活の中、側室の世話係、いわゆる“部屋子”として懸命に働いていた。大奥。そこは、当時、日本の女性たちにとって栄華の頂点、誰もが一度は夢見る憧れの世界だった。一見、煌びやかに見える大奥。しかし、その実は、厳しい階級社会だった。御末(おすえ)と呼ばれる最下級の女から、上臈(じょうろう)御年寄の最高位まで、細かく階級制が設けられ、将軍の側室となる女たちは、原則、旗本・御家人の娘に限られていた。そんなある日、大奥の一切を取り仕切る最高権力者・春日局から自分の部屋子となれと命じられた。

家光に未だ子供が産まれず、後継ぎ問題を抱えていた春日局にとって、お玉は有力な側室候補として目に留まった。こうしてお玉は、大奥の最高権力者である、春日局の部屋子となったのだ。そしてついに、運命の日がやってくる。側室候補に庭先を歩かせ、将軍に内々にお目通りする「御庭拝見」。お玉は見事、家光に気に入られたのだ。部屋子として奥勤めとなってから4年。ついに、青物屋の娘 お玉は、将軍の寵愛を受ける「お手付き」となった。17歳の時のことだった。

綱吉

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正保(しょうほう)2年(1645年)、お玉はついに、将軍家光の子を宿す。お玉は安産を願って、霊力があると評判の高かった、僧侶に祈祷させた。すると、こう予言を受けたという。

僧「あなたの産む子は、天下を治める人になるでしょう」

正保3年(1646年)、20歳のお玉は予言通り男の子を産み、その子は徳松と名付けられる。徳松は、幼い頃から飛び抜けて利発だった。しかし、家光には、すでに2人の男子がいたため、徳松の地位はあくまでナンバー3だった。父親である家光は、こう言い聞かせた。

家光「徳松は生れつき聡明ゆえ、学問に重きを置いて養え。」

自らも弟 忠長との後継者問題で苦しみ抜いた家光は、決して出しゃばるなと、お玉に言い含めた。慶安4年(1651)、家光が没し、長兄・家綱が11歳で将軍の座に就いた。家光の死によって仏門に入ったお玉は、以後桂昌院と名乗るようになり、息子 徳松と共に大奥を離れた。承応(じょうおう)2年、徳松は7歳で元服、名を綱吉と改めた。そして、館林藩二十五万石の城主となり、神田の江戸屋敷でひたすら勉強の日々を送っていた。

母子水入らずで、ひたすら学問と仏門への帰依に打ち込み、30年近い年月が過ぎていった・・・。桂昌院が54歳となった延宝8年(1680)、一つの報がもたらされる。四代将軍・家綱が、死の病にあるというのだ。しかもこの時、家綱には未だ世継ぎはいなかった。

延宝8年(1680年)5月。すでに死の床にあった家綱は、次期将軍を綱吉にすると命じた。ここに5代将軍、徳川綱吉が誕生するのである。桂昌院、54歳の時のことだった。

母と子の世直し

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五代将軍の母となった桂昌院は、三十年の時を経て、江戸城へと帰ってきた。桂昌院は大奥2000人の女達の頂点に立ったのだ。これを皮切りに、大奥ばかりか表の政治にまで口を挟むようになった桂昌院。権力を握った桂昌院には、どうしても成し遂げたいことがあった。

桂昌院「もはや刀の時代ではない。武士もまた、変わらねばなりませぬ。」

未だ巷では、浪人たちの辻斬りや、殺人が横行していた。青物屋の娘として生まれ、庶民の暮らしぶりを幕閣の誰よりも知り尽くしていた、桂昌院。今こそ、殺伐とした武断社会から、儒教と仏教を重んじる社会へ改革せねばならない。桂昌院の意を受けた綱吉も、自ら動き出す。主君への忠義と、親への孝行が社会を安定させると、諸国に「忠孝奨励の立札」を立てさせた。

生類憐みの令

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母と子で目指した社会改革を着実に進めていた中、桂昌院は、将軍の母としての悩みも抱えていた。それは、世継ぎ問題。綱吉の嫡男が夭逝し、世継ぎは未だ、存在していなかったのだ。そこで、かねてから信頼を寄せていた僧侶、隆光に祈祷を行ってもらう。隆光は、桂昌院に1つの助言を与えた。

隆光「前世の殺生の報いでございましょう。世継ぎを望むのであれば、生類を大事にしなければなりませぬ」

世間を見渡してみれば、未だ殺生が絶えない。中でも、生活の困窮を理由に日常的に行われていた、捨て子の行く末に桂昌院は心を痛めていた。誰かに拾ってもらいたいと捨てた子が、野犬に食べられてしまう事もあったのだ。仏門に帰依する桂昌院にとって、「捨て子」は許す事の出来ない「悪業」だった。

儒教の精神を重んじ、また自らも巷の状況を憂いていた綱吉は、一つの法律を制定する。貞享(じょうきょう)2年(1685)7月、生類憐みの令、発布。全ての命あるものを大切にするよう心得よ、と全国に御触書を出したのだ。

綱吉は、守らなかった者は流刑や最悪 死罪という厳罰に処した。内容は徐々にエスカレートし、鳥や魚、貝類や、虫ににいたるまで殺傷を禁止、違反者を密告した者には報奨金も出された。

生類憐みの令は、綱吉が亡くなるまで24年間続き、捨て子ばかりか、辻斬りや人殺しも激減した。“たとえ、どんな小さな命でも愛おしまなければならない。”桂昌院という一人の女性の強い思いが、人々の意識を変え、日本社会をも変えていったのだ。

六平のひとり言

まさにシンデレラストーリー。
でも、その裏に、並々ならぬ子供への愛情があった。
綱吉とともに、二人三脚で歩んだ、執念の母だね。