関ヶ原の戦いで敗れ、九度山で幽閉生活を送っていた真田幸村のもとに使者が訪れた。それは豊臣方からの大坂冬の陣参戦への打診だった。「日本一の兵」と言われた智将・幸村。宿敵徳川家康に迫るまでの、その強さの秘密に迫る!
今回の列伝は、戦国最強真田三代、2週連続のスペシャル後篇。真田三代とは、あの真田幸村の祖父・幸隆(幸綱)、父・昌幸、そして幸村(信繁)の3人の戦国武将のこと。強者が乱立する中、弱小でありながら、知略と決断によって強かに生き抜き、後世に最強とその名を知らしめた男たちである。前篇では幸隆、昌幸の生き様に迫ったが、今回の後篇では、いよいよ真田幸村。日本一の兵と称賛されたその強さの裏側に迫る。
和睦からわずか数か月後、大坂夏の陣が勃発。大坂城の堀がなく真田丸もない圧倒的不利の戦局の中で、幸村は家康の首一点に狙いを定め、野戦に出る。だが、濃い霧が立ち込め幸村が後藤又兵衛の部隊と合流が遅れたがため、後藤は討死。復讐に燃えた幸村は軍神の如き戦いぶりで、数倍の兵力を持つ伊達政宗をはねつける。多くの武将たちが次々死んでいく中で幸村は、決死の覚悟を決めた。我こそ真田三代の誇りを継ぐ真田幸村であると。
そして、慶長20年5月7日、毛利勝永が活躍し徳川勢を引きつけた瞬間、幸村は松平忠直に決死の突撃をかけ、ついに突破。家康本陣に3度迫った。馬印が乱れ、本陣にまで迫られたのは家康が信玄に敗北した三方ヶ原の戦い以来であったという。しかし、幸村は家康を見失い、休息している途中敵兵に討たれ、戦場に散っていった。享年49。その後、伝説は生まれる。真田幸村は日本一の兵であったと。
幸村!あっぱれ!!!
泥沼の挫折から這い上がって、天下人家康の首をとる寸前まで行った。
その執念に、恐れ入りました。