#68 2015年8月28日(金)放送 二〇三高地 乃木希典

乃木希典

今回の列伝は、日露戦争の激戦、二〇三高地攻略作戦を勝利に導いた男・乃木希典。ドイツ留学で知った騎士道精神。それが乃木の生き方を変えた。そして日本の命運を託されて挑んだのは、世界最強の要塞旅順。そして明治天皇に殉死した最期。乃木の波乱人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 文芸評論家
福田和也
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乃木希典(資料提供:乃木神社)

二〇三高地 乃木希典

1904(明治37)年、日露戦争最大の激戦地となった中国・旅順。日本の未来を背負い、此地に立つ男がいた−−乃木希(まれ)典(すけ)。幕末・明治の日本を駆け抜け、日露戦争を戦った武人である。
かつて西郷隆盛と並び「乃木さん」という愛称で親しまれ、国民的人気があった乃木。だが死後、様々な毀誉褒貶を受け、今日、正当な評価がなされているとは言い難い。今回はその最大の理由の一つとされる日露戦争・旅順二〇三高地の戦いに迫る。この戦いで乃木にいったいどんな葛藤があったのか?人間・乃木希典、その実像に迫る。

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(左より)玉木文之進、乃木希典(資料提供:乃木神社)、吉田松陰

無人

1849年(嘉永2年)、乃木希典は、現在の東京都港区六本木にあたる毛利藩邸で生まれた。幼名は無人(なきと)。我が子を相次いで失った父・希次が、何事もなく、元気に育ってほしいとつけた名だった。
乃木家の跡継ぎだった無人は、幼い頃から父に武士としての生き方を叩き込まれる。だが父の期待に反して無人は体が弱く、いじめられては泣いてばかり。ついには「泣人」とあだ名されるほどになってしまう。 そんな無人は父の教育に反発を覚え、ついに家出をしてしまう。頼ったのは、萩にいる親戚の教育者・玉木文之進。実は玉木は、松下村塾の創始者にして、吉田松陰の叔父、そして師である人物だった。無人は玉木にこう訴えた。「自分は学問がしたいのです!武士は嫌なのです!」だがそんな無人を、玉木はこう突き返した。「武士が嫌なら百姓になれ!」仮にも武士の家に生まれた身ならば農民のため、公のために尽くすのが筋。その覚悟なくして学問ばかりしても役には立たんと一喝したのだ。以来、無人は玉木のもとで研鑽をつみ、藩を守るため、第二次長州征討出陣を果たすほど逞しく成長。心身ともに成長した無人はついに1871年(明治4年)、22歳の若さで陸軍少佐に任官。同年、無人は名を「希典」と改め、ここに軍人・乃木希典が誕生した。

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萩の乱

萩の乱

廃藩置県、秩禄処分、廃刀令−−。明治という新時代は、旧時代の武士たちに生き方の変更を求めた。
各地で士族反乱の火種がくすぶる中、乃木が玉木のもとで研鑽を積んだ萩も例外ではなかった。そんなある日、乃木のもとにある人物が訪れる。玉木正諠(まさよし)。乃木の実弟にして、玉木文之進の養子となっていた正諠は、こう訴えた。「今の新政府のやり方はあまりに非道だ。武士の誇りと立場をなくして新しい世は有り得ない」。そして反乱への参加を乃木に訴えたのだ。
ともに玉木のもとで学び、公のために生きるという理想を掲げた兄弟。だがそれぞれの選んだ道は、今やまったく異なっていた。乃木はついに正諠と袂を分かち、軍人として戦う決意をする。やがて萩の乱が起こり、届いた正諠戦死の報−−。気持ちを新たに、次なる戦地へ赴こうとする乃木。そんな矢先、さらなる悲報が乃木のもとへ届く。玉木文之進、自刃。弟子の多くが萩の乱へ参加したことに責任を感じた玉木が、自ら命をたったのだ。
公のために生きる。そのことを教えてくれた恩師と、同じ理想を抱きつつも、違う道を歩んだ弟の死。乃木希典、27歳の冬のことだった。

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ドイツ留学時代の乃木(写真右から4人目)(資料提供:乃木神社)

ドイツ留学

その後乃木は陸軍のなかで着実に出世を続けるものの、生活は乱れ切っていた。恩師と弟を失った哀しみを酒でまぎらわそうとしていたのだ。心配した周囲が縁談を持ちかけ、29歳の時に旧薩摩藩医の娘・湯地静子と結婚。だがその後も乃木の放蕩は止まず、結婚式に酩酊状態で大遅刻をするほどだった。そんな生活が、かれこれ9年も続いていた。
そんなある日、乃木に転機が訪れる。ドイツ留学。当時普仏戦争に勝利し、世界最強と言われていたドイツ陸軍の軍制を学んで来いという命が下ったのだ。そこで乃木が目にしたのは、勤勉なドイツ軍人の姿。彼らの姿に乃木は、玉木文之進より教わった武士道と通じる騎士道を見た。そしてこれこそが自分が見失っていたものであり、近代化を急ぐ日本軍に必要なものだと認識するようになる。

帰国後、乃木は意見書を提出するも、上層部からは疎んじられるようになっていく。近代的な軍制を推し進めようとしていた上層部にとって、乃木のいう武士道的精神論は、時代錯誤以外のなにものでもなかった。ドイツ留学から4年後、乃木はついに休職を願い出ることになった。

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(左)乃木の長男・勝典と次男・保典 (右)息子2人の写真を手に持つ乃木
(ともに資料提供:乃木神社)

旅順

その後、乃木は復職と休職を繰り返しながらも日清戦争では難攻不落と言われた旅順要塞を一日で陥落。軍人としての評価はますます高まっていた。そして時代は新世紀に入り、1904年(明治37年)、日露戦争が勃発。乃木は陸軍第三軍司令官となり、再び旅順へと派遣されることが決まった。戦いには、二人の息子である勝典(かつのり)と保(やす)典(のり)も参加することが決まっていた。
日本を守るため、戦地へ向かおうとする乃木。だがそんな乃木のもとに、ある報せが届けられる。長男・勝典戦死。陸軍第二軍として戦地に赴いていた勝典が、敵の銃弾に倒れたというのだ。哀しみを胸に、乃木は一枚の写真を撮らせ、東京にいる妻・静子へと電報を打った。「カツスケ メイヨノセンシ マンゾクス」。 写真に写った乃木の手には、息子二人の写真が握られていた。

そして迎えた旅順要塞総攻撃の日。乃木をはじめ、誰もが日清戦争の記憶から今回も簡単に陥落できると信じていた。だが乃木の前に立ちはだかったのは、10年前からは想像もできないほど近代化された旅順要塞の姿だった。20万樽ものコンクリートを使って作られた要塞は、厚さ1メートル30センチを超え、通常の火器ではまったく歯がたたない。そんな要塞が旅順市街を取り囲むように、いくつも築かれていたのだ。まさに旅順は、世界最強の永久要塞へと姿を変えていた。そしてこの攻撃で乃木率いる第三軍は1万6,000人を超える死傷者を出してしまう。続く第二回総攻撃でも4,000人もの死傷者を出してしまい、国内では乃木に辞職や切腹を求める批判が殺到した。

実は乃木率いる第三軍には重要な任務が与えられていた。それは旅順要塞を攻略することはもちろん、旅順港に停泊しているロシア艦隊を殲滅すること。このロシア艦隊を殲滅しない限り、日本は大陸への兵や物資の輸送が困難となる。さらにロシア艦隊監視のため、日本艦隊は旅順沖合で足止めを余儀なくされていた。ロシアのもう一つの主力艦隊であり、世界最強と言われるバルチック艦隊がヨーロッパを出港してしまえば、日本艦隊は挟み撃ちにあい、敗北は必至−−。それを防ぐためには、バルチック艦隊が来る前に、なんとしても旅順のロシア艦隊、および要塞を陥落させ、足止めされている日本艦隊を日本に帰還させる必要があった。そのためには一刻も早く要塞を陥落させ、ロシア艦隊を殲滅しなければならない。しかし、今度総攻撃を仕掛ければ、またしても多くの兵の命が失われるだろう。日本の命運を託された乃木には、もはや時間がなかった。

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二〇三高地

二〇三高地

迫り来るバルチック艦隊を迎え撃つためには、なんとしても次の攻撃で旅順を落さなければならない−−。国家の命運が乃木の肩にかかっていた。そして乃木はある決断をする。それは攻撃目標を旅順要塞から近郊の二〇三高地という山に切り替えること。ここを落せば、旅順港に停泊しているロシア艦隊に砲撃することが可能となり、足止めされている日本艦隊を日本に帰還させることができる。だが同時にそれは、多くの犠牲を伴う作戦でもあった。二〇三高地は、その重要性に気付いたロシア軍がもっとも防備を強化している場所。ここを攻めれば、再び多くの兵の命が失われるだろう−−。それでも乃木は日本を守るために、二〇三高地を攻めざるをえなかった。

戦いは乃木の予想通り、熾烈を極めた。次々と敵弾に倒れる部下たち。そしてその中に、乃木の次男・保典の姿もあった。それでも乃木は攻撃の手を緩めなかった。そしてついに1904年(明治37年)12月5日、二〇三高地攻略に成功。第三軍は旅順に停泊しているロシア艦隊を殲滅し、続いて要塞も陥落。一回目の総攻撃開始から約5か月、死傷者5万9,000人余りを出しての勝利だった。

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水師営の会見(資料提供:乃木神社)

1905年(明治38年)1月5日、旅順・水師営にて勝者である乃木と、ロシア将校ステッセルとの間に会見が開かれることとなった。そしてこの時の乃木の行動が、世界から称賛されることになる。会見の時に撮影された一枚の写真。中央の乃木の右に写っているのがステッセル、そして左に写るロシア将校の手にはサーベルが握られている。通常、戦勝会見の写真は勝者と敗者が一目で分かるよう、屈辱的な写真が撮影されるもの。詰めかけた従軍記者たちが慣例に倣い、写真を撮ろうとしたとき、乃木はこう言って彼らを制した。「敵将に失礼ではないか。後々まで恥を残すような写真は、日本の武士道がゆるさぬ」。この時の乃木の行動は、その場にいた記者たちをはじめ、ロシア将校にさえ感銘を与えた。二人の息子を失い、部下たちの多大な犠牲の上に得られた勝利。だが乃木はあくまで相手の名誉を重んじた。そして懇願する記者たちを前に、「ステッセルに帯刀させ、友人として同列に並ぶならば」という条件付きで撮影されたのがこの一枚である。乃木は玉木文之進から学び、ドイツ留学で再発見した「武士道」をもって、敵将であるステッセルを遇したのだ。

旅順戦後、日本軍は東郷平八郎率いる日本艦隊が日本海海戦にてバルチック艦隊を破り、日露戦争に勝利。しかしその輝かしい勝利の裏には、日本の未来のため批判を一身に受けながらも旅順戦を勝利に導いた乃木の苦悩があり、そして旅順戦を戦い死んでいった多くの兵たちの姿があった。
1906年(明治39年)、乃木は国民からの鳴り止まない喝采を受け凱旋帰国を果たす。だが乃木は自らを恥じ、こんな言葉を残している。

「幾万の将卒を犠牲としたることの 悲しくも亦(また) 愧(は)ずかしく
今更何の面目あつて 諸君と相逢ふの顔(かんばせ)かあらん」

エピローグ

日露戦争後、乃木は学習院長となり、また各国歴訪の際には勲章を授けられるなど世界中で英雄的扱いを受けた。だが1912年(明治45年)、明治天皇が崩御するとその大葬にあわせ妻・静子とともに殉死、自ら命を絶った。当時のイギリスの新聞「タイムズ」は、乃木の死をこう報じている。
「西欧世界は、仮にその意味を残りなく汲み尽せぬまでも、静かに頭を垂れて敬意を表さねばならない。乃木のような人々が『明治』の時代をつくったのであり、この時代は、乃木がその身を献じた明治天皇の崩御とともに、名実ともに過ぎ去ったのかも知れない」。

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殉死当日の乃木夫妻(資料提供:乃木神社)
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乃木希典 生前最後の一枚(資料提供:乃木神社)

六平のひとり言

軍神とたたえても、彼が背負った幾多の部下の死は
とてつもなく大きなものだったと思う。
生涯、お詫び行脚をしていたという心に、感動しました。