一人に歴史あり。傑作を創りだした偉人たちの人間ドラマ。
今回の列伝は、明治の女傑・下田歌子。
ペリーの黒船来航の翌年、安政元年8月8日。
平尾 金石(せき)(※一文字)、のちの下田歌子は、美濃国恵那郡岩村城下の代々漢学を教える家に生まれ、女性でありながら、漢学や国学の教育を施される。6歳の時、父は藩是に背き、尊王論を説いたため、蟄居幽閉の身となると、金石(せき)は父を救う為、幼いながら、男になることを決意。手を焼いた両親は、「では、偉くなりなさい。そうすれば男と一緒です。」と諭した。
その日から金石(せき)は、偉くなる為、読書にうちこみ始める。特に夢中になったのは『源氏物語』だった。雅な平安貴族の世界、流麗な和歌の数々に魅了された。そして明治3年。17歳の時、ようやく幽閉が解かれた父は、新政府の仕事を与えられ、上京することになった。・・・私も、新時代の国作りに身を投じてみたい。男と同じ様に役立って見せる。そんな決意を、内に秘め、金石(せき)は父と行動を共にした。
明治26年、歌子はイギリス、ロンドンにいた。目的は、明治天皇の、2人の皇女の教育方針を定めるため、見聞を広めること。しかしそれ以外にも個人的な目的があった。ビクトリア女王への謁見。女性の身で一国を統(す)べる人物に、何としても会ってみたい…。2年後ついに、謁見の許可が降りる。バッキンガム宮殿はビクトリア女王の前に袿(うちぎ)袴(はかま)姿で現れた歌子に王室の人々は感嘆する。ご陪食の栄にも浴した歌子は、ビクトリア女王との交流の中で、女性が統治する国の根幹を見る。帰国した歌子は、明治31年女子教育普及と啓蒙のための帝国婦人協会を設立。女性が自由に学べる実践女学校をはじめ、社会的自立を目指す女学校を次々と設立する。
実は、恥ずかしながら、全く知らない人でした。
幕末維新の男社会の中に、果敢に切り込みながらも、女性としての領分とか、
時代の流れとか、鋭く嗅ぎ取って対応していった、明治の名プロデューサーだと思う。
先進的な女性を育成したのではなく、時代に適した「古い女性」を
きちんと育成するという意識も素敵だと思う。
それにしても、こんなビッグな女性が、いったいなぜ今、
ほとんど知られていないのか、その方が不思議です。