今回の列伝は、三代将軍徳川家光の乳母・春日局。謀反人の娘として育ちながら、朝廷から従二位という破格の官位と名前を賜り、幕政に多大な影響力を持つようになる。残された使命は家光の世継ぎをつくること・・・。彼女が作った大奥は世界で類を見ない女の園であった。戦国の乱世を生き抜いた彼女の波乱の人生に迫る。
大奥、それは、華やかにして煌びやかな絢爛たる世界。江戸時代、幕府の予算の4分1が費やされた大奥は、最盛期には奥女中2千人を超える、世界に類を見ない女の城だった。この大奥の礎を築いた女性こそ、3代将軍・徳川家光の乳母、春日局である。大奥を背景に、幕府の中枢で、絶大な権力をふるった女帝・春日局。しかし、その人生には、戦国の世を生き抜いた一人の女の、壮絶なる苦難の道があった。
本能寺の変のほとぼりがようやく冷めたころ、10歳になったお福は、母と共に、京都へと戻ってきた。すると、辛酸をなめたお福の人生に、ようやく光が差し込み始める。13歳になったお福は、母方の親戚筋にあたる公家・三条西家の侍女として奉公に上がることになったのだ。三条西家は京都公家衆、名門中の名門。その奥方付きとなったお福は、よく働き、行儀作法はもちろんのこと、和歌などの教養を貪欲に学んでいく。
16歳となったお福は、8歳年上の稲葉正成(まさなり)の妻となった。正成は名門小早川家の城主、秀秋の重臣。ようやく人生の運が開き始めた。結婚して3年後の慶長5年、天下分け目となった関ヶ原の戦いでは、西軍として参戦した小早川秀秋に、稲葉正成が東軍への寝返りを進言。その結果、東軍に勝利がもたらされ、夫・稲葉正成は大功労者となった。しかしその後、夫・正成は自らの処遇を巡り主君と対立。城を出て、故郷美濃の国へと戻ってしまったのだ。お福は、扶持のない浪人になった夫と、2人の男の子を抱え途方にくれる。蓄えていた金も底をついた。
そんな時、お福に届いた耳寄りな話。京都で、二代将軍秀忠の、若君の乳母を探しているというのだ。秀忠の正室、お江が、初めての子の養育に際し、こんな条件をつけていた。
「野暮なむくつけき関東の女にわが子を育てられるのは嫌でございます」
この乳母の募集を知った時、お福は、ちょうど3人目の男の子を産み落としたばかり。
お福「このままでは、夫はおろか、可愛い子たちの将来もない。夫が頼みにならぬなら、このわたしが!」お福は、正成を説得し、子供たちを預けて、一人京へとむかった。三条西家のツテを頼って京都所司代と面会。「わたしを若君の乳母に!」と名乗りを上げたのである。
将軍の嫡子、竹千代の乳母となったお福は、わが子以上の愛情を注いで、育児にいそしんだ。長男は竹千代の小姓として取り立ててもらい、そばにおくことができたものの、産んだばかりの子や、まだ乳飲み子の二男とは離れ離れ。その寂しさを忘れるため、将来将軍となる竹千代に、真心を尽くしたのだ。だが、乳母となって2年、事態が急変する。将軍の正室お江が、次男国松を産み落とすと、竹千代に対する態度が豹変する。
お江は、病気がちの上にお福にばかりなつく竹千代を疎んじるようになり、利発な国松を溺愛するようになったのだ。このままでは、自分が育てた竹千代が弟に将軍の座を奪われてしまう・・・そう案じた矢先、なんと竹千代が自害をはかろうとしたのだ。竹千代の心の内を知ったお福は、伊勢参りをすると偽り江戸城を抜け出した。
お福が向ったのは、家康が隠居していた駿府城。お福は家康への直談判に打って出たのだ。乳母ごときがと手討ちになってもかまわない。お福は家康の前で声をあげた。家康への直訴から数か月後の慶長16年10月。江戸城にやって来た家康は、孫の顔が見たいと、竹千代と国松を呼び寄せた。家康はまず、竹千代を隣に座らせた。当然のごとく一緒に座ろうとした国松に対して家康は「竹千代殿は兄、世継ぎとなる身。国松殿は弟、臣下となる身。同列に並ぶことは許さぬ」と秀忠や幕臣たちの前で一喝したのだ。この瞬間、次期将軍は竹千代であることが、明白となった。そして元和9年、竹千代は家光となり、将軍の座につく。お福の宿願はかなえられ、その後、最愛の将軍・家光の側で仕えることになる。
寛永6年、51歳になったお福は、家光の特命を受け、関係が悪化していた幕府と朝廷の交渉を担う。後水尾天皇に拝謁し、その役目を見事に果たしてみせた。そしてついに、従三位という、乳母としては、異例の官位を与えられる。その時、同時に授かった称号が「春日局」。もはや、謀反者の娘と後ろ指さす者は、誰ひとりとしていなくなった。
将軍家光の権力を背景に、幕政に多大な影響力を持つようになった春日局。しかし彼女には、まだやらねばならない大仕事があった。家光にはまだ世継ぎが生まれていなかったのだ。家光が将軍となって2年後、公家の娘・鷹司孝子を正室に迎えるも、これは、徳川家の格を上げるための政略結婚。2人に子供ができる気配はなかった。春日局が案じたのは、世継ぎが出来ないことがお家騒動の芽となること。徳川が揺れれば、戦乱の世の芽となる。その芽を摘むために春日局は、家光の「お世継ぎづくり」のための壮大な計画に着手する。「大奥」である。秀忠の時代に江戸城は、数百人の規模でしかなかった「奥」を1000人規模に一気に拡大。そこに、側室候補をすべて住まわせ、女の城を築き上げる。そして、ピラミッド型の組織によって、揺るがぬ権力構造をつくりあげた。
春日局は家光から、御年寄に任命され、大奥の実質的な最高権力者として君臨するようになったのだ。「将軍の第一の役目は、世継ぎを残すこと」として、巨大組織大奥を築きあげたのである。しかし、「大奥」という世継作りの万全な体制が出来たにも関わらず家光に肝心の子が一人も生まれないのだ。子供ができないどころではない。どんなに美しい女を奥女中にしても、家光はまるで興味を示さないのである。
「もはや、上様はおなごをお抱きになることはないのか」
なりふり構っている場合ではなかった。家光の側室探しは、江戸市中にも及び、武家の娘だけではなく、商人、町人の娘、果ては尼までも還俗させ次々と大奥に引き入れた。家光が将軍となって18年が経とうとしていた。ついに・・・。
寛永18年家光と側室、お楽の方に、待ち望んだ嫡子・竹千代が誕生する。のちの四代将軍家綱である。春日局が、幼い家光に乳をあげた時から、37年が経っていた。
寛永18年9月2日、江戸城。竹千代の盛大なお披露目が挙行される。諸侯の拝謁を受けるため、御三家をはじめ、幕閣や重臣が集まる中、竹千代を抱いて現れたのは春日局であった。春日局、この時63歳。自分の乳母を晴れの舞台に立たせたいという、将軍家光の計らいであった。
いやー!すごい女性政治家ですね。
将軍家康の前でも、朝廷の使者としても、
堂々と自分の意見を述べる、肝の据わった女性。
徳川260年の礎の一角を、
春日局がきずいたといっても過言じゃないね。
お局様!恐るべし!