#58 2015年6月19日(金)放送 日本民俗学の父 柳田国男

柳田国男

今回の列伝は、民俗学の祖・柳田國男。日本における風俗や伝説、民話をあつめ、目に見えない日本人の精神性を追求した。岩手の農村の豊かな伝承を収録した「遠野物語」には119もの豊かな伝承を収録した。富国強兵、近代化に向かって進む時代にあって、それはまさに失われつつある日本人のアイデンティティそのものであった。

ゲスト

ゲスト 作家
室井光広

今回の列伝は、民俗学の創始者、柳田国男。近代化の名のもとに、古き良き日本の文化が破壊される中、ペンの力で立ち向かった。しかしそれは、孤独な戦いの連続だった。幼いころ目の当たりにした、農村の悲しき因習。貧しい農村の役に立ちたいと、官僚の道を歩み始めた時、国男がぶつかったのは、理想とかけ離れた政策。挫折のはてに出会ったのは、いにしえから伝わる豊かな文化だった。農村の文化を守ってみせる!その思いが結実した学問こそ、傑作・「民俗学」。日本の心を甦らせた男、柳田国男の人生に迫る!

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間引き絵馬

明治8年、柳田国男は、兵庫県・辻川で8人兄弟の6男坊として生まれた。父・操は、漢方医学を修めていたが、明治に入って西洋医学が主流になり、収入が激減。貧しさの中で体が弱かった国男の楽しみは、父が語ってくれる、一つ目小僧の話だった。国男が10歳の時、飢饉が起こる。およそ一か月、おかゆだけという日々が続く。家では国男を養えなくなってしまい、口減らしに出された。

医者として働き始めた15歳年上の兄がいる、茨城県・布川に行く。国男は、自然の中で遊びまわり、元気になっていった。外から帰ると、兄が働いていた診療所の家にある、たくさんの書物に夢中になった。しかし、なぜかどの家庭も、子供は2人と決まっていた事を、不思議に思っていた。そのワケを、近所のお寺で知る。母親が、生まれたばかりの赤ちゃんを押さえつけている、「間引き」の絵馬を見たのだ。美しい農村の裏にかくされた悲しい現実が、国男の胸に深く刻まれた。

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文学

明治26年、国男は兄の援助を得て東京・本郷の第一高等学校に入学。当時流行作家だった森鴎外や、西洋の詩集など、美しいロマン派文学の洗礼を受ける。そんな中で知り合った、同世代の作家志望・田山花袋と、意気投合。そして国男は自ら、ロマンに溢れる詩をつづっていく。国男が表現したのは、かつて自分を育んでくれた農村への思いだった。国男の作品は、「文学界」や「国民之友」などにも発表され、抒情的な詩人として頭角を現すようになる。
しかし、国男の文学熱を冷ましてしまう出来事が起こる。親友・田山花袋が発表した、「蒲団」。花袋自身の現実の恋愛について、嫉妬心や性欲を露悪的に描き出した作品だった。国男は、おぞましさに震え、激しくこき下ろした。しかし、国男の思いと裏腹に、文壇は「蒲団」を絶賛。国男は、文学に絶望する。国男は文学を捨て、貧しい農村のために生きることを決意した。

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富国強兵

東京帝国大学で農政学を学んだ国男は、農商務省に入省。農民の利益を保護し、多くの人々が幸福を享受できるようにするべきだと建議した。しかし、当時の政策は、富国強兵を旗印に、効率を重視。警官がサーベルを抜いて従わない者を脅し、罰則を科すという強制的な農業政策だった。異を唱える国男は、事あるごとに上司と衝突。農政と全く関係のない法制局に異動になってしまう。しかし、国男は農村に足を運ぶことをやめなかった。
明治41年、宮崎県の山間にある椎葉村を訪れる。この地では、養う家族が多い貧しい家には広い畑を割り当てていた。そして、イノシシ狩りの時には、取り分のない者が出ないよう獲物が分配されていた。山の神への信仰をもとに掟を守って支え合い、貧しさを乗り越えていたのだ。国男は、気づく。共同体の文化を守ることこそ、農村を幸福にするのだと。しかし、今の政府の方針では、その伝統が失われてしまうかもしれないことも・・・

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遠野物語

国男の危機感は、現実のものとなる。政府は小さな社を廃止させる、神社合祀令を公布。国男は、失われつつある風習や伝承を集めていた。そして、岩手県遠野出身の青年・佐々木喜善が語る独特な伝承に惹きつけられる。明治42年、国男は遠野へと向かう。村の至るところに小さな社が祀られ、神々や精霊たちへの信仰を、様々な伝承に託して、守り伝えていた。ザシキワラシ、カッパ、オシラサマ・・・口伝えの物語を通して、妖怪や神々を身近に感じる暮らし。その価値は、農村の人々自身も、世間も気づいていない。

国男は、「遠野物語」を発表する。遠野の暮らしに確かな存在として残る不思議な物語を119話収めた。国男は、自費出版した遠野物語を、自ら配ってまわり、農村の伝統を今こそ守るべきだと訴えた。しかし、国家神道に反する民間信仰は「邪教淫祠」と呼ばれ、政府主導で禁止することが決まる。そこで国男は、志を同じくする、博物学者の南方熊楠と行動を始める。南方が神社合祀反対を訴えた「南方二書」を、国男の自費で、活版印刷。数十名の政治家に配り、帝国議会に建議する根回しをする。しかし官吏であった国男は、表に立って政府の方針に反対することができず、自らの名前は伏せて活動せざるを得なかった。このまま官僚の道を進んでも、思うように行動することができない・・・
大正8年、国男は辞表を提出。在野にあって農村の文化の価値を訴える事に人生を賭けたのだ。

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民俗学

国男は、官僚を辞したあと、新聞社に入社。農村の文化の価値を発信すべく、全国を巡り、その調査の結果を新聞紙上で発表。しかし世間は、ただの旅行記としか見てくれない。国男は、自宅の書斎を開放し、若者たちに、自分が集めた村の話を始めた。社会的に認められた学問にすることを目指したのだ。
海外の研究者と交流し、海外に赴いて、既存の文化研究を調べ、どうすれば新しい学問を確立できるかを模索する。そして毎年、研究書を出し続けた。そんな地道な活動の中で、国男の志を受け継ぐ人々の輪が、広がっていく。

昭和10年、7月31日。東京・青山で開かれた、「日本民俗学講習会」。国男の一番弟子・折口信夫は、自らの研究方法について、発表。金田一京助は、アイヌについて語った。そして多くの学者たちが、方言や昔話、冠婚葬祭などの研究発表をした。それはまさに、民俗学という新しい学問の誕生だった。

六平のひとり言

実は、民俗学という学問が、日本独自のものであると知りませんでした。
今の時代も、ともすれば、外国の文化が素晴らしいと思いがちだけど、日本のここかしこに残る、
小さな文化や風習に、日本人のアイデンティティがあることをもう一度、見直さないといけない。
それを柳田国男が教えてくれました。