#55-56 2015年6月5日(金)放送 幕末維新の学び舎 松下村塾スペシャル

松下村塾

第1部 よる9:00〜9:54
第2部 よる10:00〜10:54

今回の列伝は、多くの草莽の志士たちを輩出し、新時代の扉を開けた「松下村塾スペシャル」。
長州・萩にあるわずか100人足らずの私塾から、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋・・・数多くの英傑たちが巣立った。なぜ吉田松陰は松下村塾を立ちあげ、何を教えたのか? 松陰が獄中で書いた「草莽崛起」。師が残した教えに、塾生たちはついに立ち上がる。それは大きな時代の流れとなり、明治への扉を一気にこじ開けていったのだ。日本を変革した「松下村塾」に迫る。

ゲスト

ゲスト 作家
童門冬二
ゲスト 歴史研究家
河合敦
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幕末維新の学び舎 松下村塾

山口県萩市にある、松陰神社。その一角に、私塾跡がある。「松下村塾」。
私塾自体は珍しくない幕末の時代、ここは他とは一線を画すものがあった。それは、塾長が“罪人”であったこと。吉田松陰の教えは、わずか2年。だが彼はこう予言する。
「この松下村塾から、必ず天下を震撼させる、
奇傑の人物が出るだろう」

そして、それは見事に的中する。松陰の志を継いだ者たちが、自らの命と引き換えに、時代に風穴を開けていったのだ。彼らが紡いだ、変革の志に迫る!

罪人教師 誕生

文政13年、吉田松陰は長州藩士に仕える兵学者の家に生まれた。幼い頃からその優秀さは群を抜き、18歳で兵法の師範となるも、日本全体の国防を知りたいと、長州藩を脱藩し、遊学の旅へ出る。その途中、ペリーの黒船艦隊と遭遇し、衝撃を受ける。今まで学んだ兵法など役立たずだ。これからは西洋を知り、西洋の兵学を学ばなければならない!松陰は黒船に乗り込み、アメリカへ密航を企てた。

しかし、当時、幕府の許可なく海外へ渡航することは死にも値する重罪。 幕府ともめごとを避けるため、アメリカ側も松陰の乗船を拒否し、送り返す。この事件が明るみとなり、松陰は、死罪を免れたものの、故郷・萩で投獄される。しかし松陰は落ち込むことなく、読書に勤しみ、本で得た知識をほかの囚人たちに披露し始めた。やることも無く、退屈していた囚人たちはたちまち心奪われ、松陰を中心に自然と車座ができた。絶望の牢獄が、いつしか希望の学び舎へと変わっていた。

1年余りが過ぎた頃。松陰は出獄が許され、自宅謹慎の身となると、村の若者が教えを乞いにやってくるようになった。松陰は決意する。・・・いつかきっと、日本の幹を支える人材を生み出してみせる。こうして罪人教師が主宰する私塾が誕生した。

双璧

安政3年、松陰の元に一通の手紙が届く。差出人は、久坂玄瑞と名乗る若者だった。手紙には、西洋に屈して開国した幕府を非難する、玄瑞の持論が書かれていた。国の将来を憂いた若者の、青き理想。志は申し分ない。松陰は入塾を許可した。
さらに松陰はもう一人の若者にも目を付ける。玄瑞の幼馴染で、塾に見学に来た高杉晋作である。学問に興味を失い、剣術に没頭していた晋作は、松下村塾で行われていた、歴史書をもとに、今ならどうすべきかを考える、実践の学問に魅了される。松陰は晋作に、玄瑞と互いに切磋琢磨するよう仕向け、2人は良きライバルとして、一心不乱に学問に打ち込むようになる。やがて玄瑞と晋作は、塾内でも一目置かれる「双璧」と称されるようになっていく。

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(写真:国立国会図書館)
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松陰の暴走

安政5年。幕府は、帝の勅許を得ないまま、アメリカと通商条約をついに締結。さらに、開国政策を批判する者たちを弾圧する「安政の大獄」が始まった。
江戸で多くの識者と討論を重ねていた玄瑞と晋作に、ある日、萩にいる松陰から手紙が届く。それは、幕府老中の暗殺計画を促す内容だった。松陰の決意に、弟子たちは衝撃を受け、すぐに応じることができない。しかし松陰は計画実行の為、武器・弾薬の貸与を長州藩に堂々と求めた。松陰の過激な言動を恐れた長州藩によって、松陰は再び投獄される。

松下村塾は松陰の行動によって、わずか2年で閉鎖を迎えてしまった。師の思いを理解はしつつも、計画の実行は難しいと手紙で伝える2人。だが松陰は烈火のごとく怒り、絶交を宣言する。やがて江戸へと護送された松陰は、取り調べ中、老中暗殺計画を告白、斬首刑に処された。

「尊皇攘夷の行動を起こすには、幕府や藩を頼らず、権力のない、
在野の志士たちが自ら立ち上がり、変革の主となるべきである。」

松陰が残した、この志は、残された門弟たちに、大きな変化をもたしていく・・・。

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禁門の変

理想に殉じる志士の姿。松陰はそれを、身を持って示した。その高潔さに比べ、今の自分はどうだ・・・。玄瑞は自責の念に駆られていた。そんな中、驚くべき報せが入ってくる。師の命を奪った、憎き幕府の中心人物、大老・井伊直弼が、水戸の脱藩浪士によって暗殺されたのだ。変革を行うは草莽——。師の残した言葉が蘇る。玄瑞にもう迷いは無かった。
玄瑞は、水戸・薩摩・土佐など、各地の勤王の志士たちを訪ねて回っていた。各藩の有志と垣根を越えて団結し、草莽崛起しようと働きかけたのだ。さらに玄瑞は京の公家たちにも働きかけ、朝廷を中心に、攘夷の気運を高めていく。

文久3年、5月。ついに玄瑞は長州軍を率いて、下関で外国船への砲撃を開始。だが、この動きに薩摩・会津両藩は、危機感を抱く。長州は国を危うくする——。そして朝廷に対し、長州追放を訴えたのだ。
8月18日、朝廷は都から長州を追放。朝廷、幕府、諸藩からなる政治の中心から、長州だけが排除されてしまった。翌年、玄瑞は、長州追放撤回を嘆願するため、2千の軍勢を率いて、京都に乗り込む。だが幕府と薩摩からなる諸藩は、2万の軍勢を集結させ、入京を拒んだ。強引に進めば、戦になるのは確実。勝利する可能性など、皆無に等しい。しかし…玄瑞の脳裏に、松陰の言葉が甦った。今度こそは、「忠義」のために、殉じるのだ。
長州連合軍2千は、2万の兵に対し、戦闘を開始。世に言う「禁門の変」が始まった。同士たちは、次々と討ち死にし、玄瑞も負傷、屋敷に追い詰められ、火を放たれる。元治元年、7月。久坂玄瑞、自刃。草莽崛起の志を胸に、25歳の若者は、散っていった。

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奇兵隊

尊敬すべき師、そして愛すべき友を相次いで亡くした高杉晋作。そんな晋作は、「禁門の変」一年前の文久3年、西洋列強と互角に渡りあう術を、長州藩主に申し出ていた。

「有志の士を募り、一隊を創立し、名付けて奇兵隊といわん」

その軍隊、奇兵隊の採用に身分は問わない。必要なのは、志のみ。晋作は身分を越えて、草莽崛起すべく、民衆の軍隊創設を目指したのだ。晋作指揮のもと、着実に戦闘能力を高めていく奇兵隊。・・・しかし突如、その存続に危機が訪れる。それが、あの「禁門の変」だった。

幕府は、久坂玄瑞たちの行動を、朝廷への反逆とみなし、15万の大軍を長州に送り込む。堪らず、長州藩は無抵抗で降伏した。以後、藩内は幕府に謝罪・恭順する保守派が実権を掌握。晋作をはじめとする攘夷派の志士たちは、危険分子とされ、命を狙われる立場へ変わった。奇兵隊にも解散命令が出された。同志達が次々と処刑されていくなか、晋作は長州藩の乗っ取りを決意する。だが、それはあまりに無謀な賭けだった。呼びかけに応じたのは、たったの80人。勝利の見込みは殆ど無い。しかし、その志が揺らぐことはなかった。今こそ、草莽崛起する時なのだ。

「これよりは、長州男児の腕前、お目にかけ申すべし!」

元治元年、12月15日、晋作は決死の80人とともに戦い、クーデターに成功。この勝利に共感した民衆が続々と集結し、その数は、3000にまで膨らんだ。保守派の軍勢を一掃すると、晋作はついに、長州藩の実権をその手に収めた。幕府は再び攘夷路線に戻った長州が許せず、大軍を送り込んでくる。「第二次長州征討」である。晋作は、彼らとともに、幕府軍との全面対決へ乗り出した・・・。
慶応2年、幕府軍10万に対し、わずか3500人で挑んだ奇兵隊は、圧倒的人員差をものともせず、各地で勝利。それは、民衆が体制をひっくり返す、「草莽崛起」が実現した瞬間だった。この勝利によって、草莽崛起の志は長州に留まらず、全国へ広がった。260年間続いた徳川幕府は崩壊。3人で繋いだ民衆の力が、時代を明治維新へと、一気に突き進めたのだ。

六平のひとり言

時代と、場所と、人材と、すべてが一体となった奇跡!
それが松下村塾だと思いました。
幕末激動の時代でなければ、そして吉田松陰という人物が存在しなければ、
さらに高杉や久坂という弟子がなければ・・。
どれ一つかけても、この小さな塾から時代を動かすことはできなかったと思う。
奇跡が重なって、時代の運命を背負った学び舎が生まれたんだと感じました。