今回は江戸中期、享保の飢饉の際、人々を救った儒学者・青木昆陽を取り上げます。魚問屋の一人息子として生まれながら、本格的な学問をしたいと京都で学んだ昆陽。しかし、両親の突然の死。6年もの長きに渡り、両親の喪に服した昆陽は、その真面目さや博学さから、飢饉を救うためのプロジェクトリーダーに抜擢されます。 様々な危機に直面しながらも、人々を救いたいと願った昆陽の思いに迫ります。
江戸時代、商業の中心地だった、お江戸日本橋。元禄11年、青木敦書、後の昆陽は、この地で、魚問屋の一人息子として生まれた。両親の期待を一身に背負い、幼い頃から跡とりとなるべく、寺子屋で読み書き算盤を習っていたが、算盤より学問の方が面白くて仕方がない。
やがて昆陽は、店の手伝いをほったらかし、本を読み漁るようになった。そんな昆陽の本好きは近所でも評判となり、つけられたあだ名は「文蔵」。父親は身体が弱く、商いもままならなかった。しかし22歳のある日、昆陽は一大決心をし、両親に自分の本心を打ち明ける。「京都で学問がしたい!」 一人息子からの思いもかけない言葉に、両親はとまどった。店はどうするのか。 そして、学問を究めて一体何になるのか!?
しかし、昆陽は行かせてくれの一点張りだった。その後、両親を説得した昆陽は、後ろ髪を引かれる思いで、京都へと旅立って行った。
享保4年、京都。当時、京都は、名のある学者たちが集結する日本随一の学術都市でもあった。昆陽は、その京都でも一、二を争う名門私塾、古義塾に入る。主宰していたのは、当代随一の儒学者として活躍していた、伊藤東涯だった。塾生は東涯を慕って全国から集まった、医者の卵や学者志望の若者たち。その末席で、魚問屋の息子 昆陽は、儒学を学び始める。さらに、昆陽は儒学に加え、「本草学」に打ち込むようになった。「本草学」とは、病に効果のある動植物の研究を主とする、当時 最先端の学問だった。どんな動植物が、どんな病の治療に効果があるのかを調べ、薬草の栽培方法なども研究するのだ。東涯の元で懸命に学ぶこと2年。ところが、そんな昆陽の元に江戸から急報が届く。江戸の大火で自宅が焼け、魚問屋は廃業、さらに父親が病に倒れたというのだ。
すぐさま昆陽は江戸に戻り、昼夜を問わず、つきっきりで父親の看病にあたった。そして、都で学んだ“本草学”を駆使し、自ら薬を調合、毎日飲ませた。そして、看病の傍ら昆陽、塾を開き、近所の子供らに学問を教え、生活を支える。しかし翌年、懸命の看病の甲斐もなく、父親はこの世を去る。そして、後を追うように、母親も病死。絶望した昆陽は、両親の喪に服す為、6年もの間、寺参りの時以外、外出することもなく、朝夕、粥のみで過ごすことになる。
そんな昆陽が喪に服し、家の中に閉じこもっていたある日、突然、お上から呼び出しがかかる。“お前の学問を世のために生かしてみろ”、と昆陽に告げたのは、誰あろう、江戸町奉行・大岡越前守忠相だった。
昆陽の両親の喪が明ける頃、日本列島を異変が襲った。享保17年、冷夏により、稲を食い荒らす害虫が大量発生、大凶作をもたらした。世にいう「享保の大飢饉」である。中でも西日本の惨状は目を覆うばかりで、飢えと寒さで200万人以上の死者が出たと言われている。
時の将軍 徳川吉宗は、飢えに苦しむ農村を救うべく、江戸市中の米を買い上げ、被害の大きい西日本の農村へ送るという、緊急措置を発令した。ところが、この措置によって、江戸市中の米の価格が5倍にまで急騰してしまう。今度は、江戸の庶民が飢えに苦しむことになった。
市中では、打ち壊し事件が多発。幕府を揺るがす、社会不安へと発展していく。この事態の収拾に乗り出したのが、吉宗の命を受けた江戸町奉行 大岡越前。食糧危機から脱するため、身分を問わず有能な人材を登用、新田開拓など、打開策に取り組んでいた。大岡は、部下の与力が推挙する言葉を信じ、昆陽に出仕の要請をした。面会後、越前は昆陽に全てを託した。
昆陽は、「本草綱目」をはじめ、凶作の対策について書かれた書物を読み漁り、飢饉の際に栽培する作物を徹底的に調べ上げる。そしてサツマイモに注目した。サツマイモは当時、九州では栽培が始まっていたが、江戸ではまだ、未知の作物。昆陽は、一抹の不安がよぎりながら、サツマイモの有効性を記した書物を一気に書き上げる。それが享保18年に著した、「蕃藷考」。そこには、サツマイモが持つ13の優れた効能が書かれていた。さらに昆陽は、穀物の代わりとなること、風雨やイナゴの害を受けないことも書き記した。昆陽がこの「蕃藷考」を、大岡越前に見せたところ、大岡は目を見張った。「これはいける!これで江戸の民を救うことが出来る!」大岡は、すぐさま将軍、吉宗に報告すると、昆陽に、新たな命が下る。“まずは、試しに作ってみよ!”
こうして元魚問屋の息子にして親孝行者の儒学者は、幕臣に取り立てられ、「薩摩芋御用掛」となった。しかしサツマイモが、江戸で無事育つかどうか昆陽自身にも分らなかった。享保20年、冬。飢饉による餓死は深刻化、一刻も早い対策が急がれていた。そんな中、昆陽の元に、九州からサツマイモの種芋が届く。その数1500個。飢餓で苦しむ人々の命運が、昆陽に託された。
いよいよ始まった、サツマイモの試験栽培という、飢饉救済プロジェクト。しかしその成功までには、昆陽が乗り越えなければならない、三つの壁があった。まずは、栽培方法。サツマイモは他の芋よりも、思いのほか手間がかかるのだ。
当時、江戸で芋といえば里芋や長芋のこと。その栽培方法は、土の中に穴を掘り、直接種芋を埋めて育てるというもの。一方、サツマイモはと言うと、まず種芋を植え、そこから生えてきた蔓を切り、地中に埋める。その蔓が根を張り、やがて芋が出来る。単に種芋を植えるだけではダメなのだ。そして、昆陽を最も頭を悩ませたのが栽培時期。苗を植えるタイミングが、関東では難しいのだ。しかし昆陽は、慎重に計算し、苗を植える適切な時期が彼岸過ぎであることを導き出す。そして三つ目が、試験栽培を行う場所の確保だった。実は、サツマイモの試験栽培に異を唱える者が現れたのだ。儒学者の新井白石である。かつて将軍の側近として、幕政を担っていた白石が反対したのだ。
事実、江戸時代に書かれた農業書には、サツマイモには「毒がある」と記されていた。白石の言葉を信じた農民や地主たちは、試験栽培の土地を貸してくれなかった。しかしその窮地を救ったのが大岡越前だった。その結果、江戸・小石川にある、幕府直轄の薬草園、九十九里にある大岡の土地と幕張。何とか3箇所の試験栽培地を確保する事が出来た。
“これで、ようやく栽培を始められる。”そう勢い込んだ昆陽だったが、保管していた種芋の変化に愕然とする。種芋が腐っていたのだ。原因は、江戸の冬の厳しい寒さだった。種芋に霜が降り、その水分によって大半が傷んでしまったのだ。書物で栽培方法を徹底的に調べていた昆陽だが、江戸の寒さは予期しない出来事だった。飢饉救済プロジェクトは、暗礁に乗り上げてしまう・・・。
昆陽は、しかし諦めていなかった。使える種芋が残っていないか、腐った芋の中から、より分け始める。その結果、1500個のうち、何とか500個の種芋が、無事であることが分った。そして昆陽は、彼岸が過ぎた頃、自らの手で種芋を植えた。
種芋を植えても昆陽の苦難は続いた。大切な芋が、イノシシに食べられないよう畑の四方を柵で囲い、そのすぐそばで寝泊まりし、24時間監視を続けることに。するとおよそ3週間後、種芋は蔓を伸ばした。昆陽はこの蔓を苗として、畑に植え付ける。雨の日も風の日も毎日畑に通い、117日間、1日も休むことなく、サツマイモ栽培の様子を窺った。
そして享保20年11月、ついに収穫の日がやってくる。期待と不安が混じり合う中、蔓を引っ張ると、土の中にあったのは、丸々と太ったサツマイモだった!昆陽は、江戸で初めての栽培に成功したのだ! この快挙は将軍・吉宗に届き、幕府は本腰を入れ、サツマイモ栽培に取り組み始める。そして翌年には、関東一帯で栽培が始まり、人々を飢えから救った。
しかし、昆陽の仕事は、ここで終わらなかった。サツマイモをあまねく普及させるため、 自分の経験と知識の全てを一つの書物に注ぎ込んだ。そして著したのが、享保20年の、「甘藷之記」。2年の歳月をかけ書き上げた、栽培マニュアルである。江戸の庶民にも分かりやすいよう、仮名書き混じりで書かれていた。
享保の飢饉から50年後、またしても関東を飢饉が襲う。「天明の大飢饉」。悪天候や冷害が続いたことで、関東・東北一帯が凶作に見舞われ、さらに浅間山が噴火。日本史上、最悪の飢饉だった。この飢饉を救ったのが、あのサツマイモだった。村々ではサツマイモを食べ、飢えをしのいだ。餓死者が一人も出なかった村もあったという。
昆陽の言葉がある。
「享保二十年 甘藷を植う(うう)甘藷流傳(るでん)して
天下をして飢うる人 無からしむる是れ余が願なり」
サツマイモによって、飢える人がこの世からいなくなって欲しい・・・。昆陽の心からの願いは、叶えられたのだ。
たかがさつまいも、されどさつまいも!
青木昆陽がいなかったら、
江戸の飢饉のみならず戦時下の日本の食生活も、
もっと苦しいものになっていたに違いない。
芋神様に感謝!