#51 2015年5月8日(金)放送 武士道 新渡戸稲造

新渡戸稲造
(十和田市立新渡戸記念館 提供)

今回の列伝は武士道を世界に広めた教育者・新渡戸稲造。明治時代、西洋列強から野蛮と思われていた日本。新渡戸は日本人の魂を体系化した本「武士道」を英語で出版、世界的なベストセラーになった。その後、日本が誇る国際人として国際連盟の事務次長として活躍。しかし、昭和8年、晩年の新渡戸にカナダでの国際会議の団長としての命が下った。それは軍国主義の道を突き進む日本に残された、唯一の外交の場であった。新渡戸は渾身の演説を残すも…

ゲスト

ゲスト フランス文学者・評論家
鹿島茂

今回の列伝は、近代日本が誇る国際人・新渡戸稲造。
1900年(明治33年)にアメリカで刊行された「武士道」は17か国語に翻訳され、“日本初の世界的ベストセラー”に。武士道精神を日本に宿る倫理観として解き明かし、“野蛮な未開の国”と見られていた日本のイメージを覆した。その後、国際連盟の初代事務次長を務めるなど、日本随一の国際人として活躍した新渡戸。晩年に待っていたのは、その「武士道精神」を試される苛酷な闘いだった—

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家名復興

幕末・1862年(文久2年)、新渡戸稲造は、陸奥国岩手郡(現・岩手県盛岡市)に武家の三男として生まれる。新渡戸家は代々南部藩の要職を務める名家だったが、その歴史は苦難の連続だった。兵法学者だった曾祖父・惟民は、藩主への進言が反逆と見なされ、下北半島への追放という処分を下される。厳しい土地で、一家の生活は困窮を極めた。
その息子・傳(稲造の祖父)は、家族を養うため武士を廃業し、材木商として身を立てた。後年、藩の許しが出ると、傳は新渡戸家の家名復興を目指す。不毛の原野・三本木原(現・青森県十和田市)の開拓を願い出たのだ。十和田湖から水を引いて人工の川(稲生川)をつくり上げ、田畑を広めた。さらに商人を入植させ、活気ある町を築き上げる。血の滲むような努力の結果、共に開拓に尽くした息子・十次郎(稲造の父)が、江戸留守居役という重職に登用される出世を果たした。

だが稲造4歳のとき、新渡戸家に事件が起こる。父・十次郎が、財政の行き詰った南部藩の行く末を考え、フランスとの貿易を進言。すると、藩主・南部利剛に藩政を乱す者と見なされ、蟄居閉門に処されてしまう。十次郎は翌年、失意のまま病死。そして翌年、明治維新が起きる。武士の社会が、終わりを告げた。母・せきは、稲造の将来を案じ、稲造の伯父・太田時敏に教育を託す。元南部藩士で、維新を前に東京に出ていた太田。武士の正義の心と、新渡戸家の家名復興という宿願を稲造に叩き込んだ。

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キリスト教

1877年(明治10年)、15歳の稲造は札幌農学校に入学。「少年よ、大志を抱け」という言葉を残したアメリカのクラーク博士が初代校長を務めた最先端の学舎で、全ての授業が外国人教師によって英語で教えられていた。稲造は学問のトップを目指し、勉学に燃えた。
だが、入学から3年が経った頃、思い悩む日々を送るようになる。原因は、キリスト教だった。学校ではキリスト教教育が行われ、生徒たちは全員入信。武士の子として育ってきた稲造、新渡戸家のため一番になろうと励んでいたのに、キリストの教えでは「名誉欲に囚われてはいけない」という。矛盾に苦しんでいた。

そんな日々のなか出会った、一冊の本。イギリスの思想家、トーマス・カーライルの「サーター・リザータス」。「思い悩む者は、最も手近にある義務を果たせ。そうすれば、次の義務が明らかになるだろう」という言葉に心をつかまれた。いま、自分に与えられた「義務」はとにかく「学ぶこと」だ。そう見定めた稲造は、札幌農学校を卒業すると、アメリカ留学を目指す。伯父・太田が全財産を投げ打ち、旅費と学費を用意してくれた。22歳の稲造、ひとりアメリカへ旅立った。

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日本人とは?

1884年(明治17年)、稲造は、アメリカの名門ジョンズ・ホプキンス大学に入学。農学を始め、経済学や政治学など、最新の学問を貪欲に吸収していく。だが、周囲から、日本人への蔑みの視線を感じていた。幕末、日本の“サムライ”は世界を驚かせていた。薩摩藩の行列を横切ったとして、横浜でイギリス商人が斬殺された「生麦事件」や、土佐藩士がフランス水兵を射殺し、その責任を取ってフランス公使の目の前で11人が切腹した「堺事件」。日本人は、やたらと刀を振り回し、揚げ句自ら腹を切って死ぬ、野蛮な民族と思われていたのだ。

孤独で辛い日々を送っていた稲造は、キリスト教の集会で、ある人物と出会う。メリー・エルキントン。大富豪の令嬢だった。美しく、聡明なメリーにすぐに惹かれた。メリーも、日本の近代化への夢を語る誠実な青年との会話を楽しんだ。出会いから6年後、2人は結婚。だがそれは、当時の社会では容易に受け入れられる事では無かった。周囲からは皆反対され、メリーの両親に理解してもらうことも出来なかった。その理由は稲造の人格ではなく、ただ“未開の国・日本の青年だから”というものだった。

1891年(明治24年)。留学を終えた稲造はメリーを伴って帰国、母校・札幌農学校に請われ、教授に就任する。日本が欧米に並び立つため、近代教育に尽くすことを、自らの使命と定めていた。さらに、貧しく教育を受けられない子供たちのために夜学校も創設。昼も夜も教育に捧げる、多忙な日々を送る。だが、帰国から6年後、激務がたたり、激しい頭痛を伴う神経症を患う。「全快まで、7〜8年」という診断だった。

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傑作・「武士道」

1898年(明治31年)。本格的な療養のため、稲造はメリーを伴ってアメリカへ渡る。待ち受けていたのは、以前にまして厳しい、日本人への警戒の眼差しだった。
1894年(明治27年)に勃発した日清戦争。新興国・日本が、大国・清を倒したというニュースが、世界に衝撃を与えていた。野蛮な日本人が、力を持ち始めている。アメリカで、激しい「日本警戒論」が湧き上がっていた。稲造は、その現実に直面し、あらためて自らに問いかける。日本人の道徳とは?

かつて留学していた時のこと。ベルギー人法学者・ド・ラヴレー教授から、質問をぶつけられた。
「あなたの国では、宗教教育がないというのですか?」
「はい、ありません」
「それは驚きです。宗教がなくて、いったいどうやってものの善悪を教えるというのですか?」

稲造は、答えられなかった。以来、その記憶はずっと頭に留まっていた。

自分は、どうやって生きて来たのか?考え抜いた脳裏に浮かんだのは、祖先たちの生き様だった。自らの危険を顧みず藩主に進言し、勇気ある生き方を貫いた曾祖父や、父の姿。幼い自分の将来を思い、東京で学ばせてくれた母の心。武士の精神を授けてくれ、稲造を信頼し全財産をはたいてアメリカへと送り出してくれた伯父の背中。

1900年(明治33年)。稲造の著書・「武士道」が、アメリカで刊行される。稲造は、「日本の魂」としての武士道を、初めて解き明かしてみせた。
武士が守ってきた不文律の徳目が、5つある。「義」とは、卑怯や不正を憎む、正義の心。「勇」は、義を守るために行動する、勇気。「仁」は、誰に対しても慈悲の心を持つこと。「礼」は、人に敬意を払う、礼儀。そして、「信」。常に誠実であること。武士に二言はなし。そして、野蛮な行為と見られていた「切腹」の意味を説いた。
“切腹は 武士が罪をつぐない 過ちを詫び 恥を免れ 友を救い 自己の誠実を証明する行為だった”
刀については、こう記した。
“武士道は、刀の無分別な使用を正当とみなすか? その答えは、断じて否である!
 武士道は、刀を適切に使うことを大いに重んじ、その濫用を戒め、嫌悪した”

武士は、断じて好戦的な民族ではない。刀を抜くのは、決死の覚悟がある時だけだ。そう訴えたのだ。「武士道」は17か国語に翻訳され、世界各国でベストセラーとなる。

当時のアメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトも「武士道」に感銘を受けた一人だった。「武士道」発表の4年後、日露戦争が勃発。日本が劣勢に陥ると、戦争終結の仲介役を買って出たのが、ルーズベルトだった。彼の尽力により、日本は権益を守られるかたちで終戦を迎える。

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最期の闘い

「武士道」により、世界にその名を知られた稲造。その後、日本が誇る国際人として活躍する。第1次世界大戦後に国際連盟が発足すると、その初代事務次長にも就任した。だが、戦争へと向かう時代に巻き込まれていくことになる。
1931年(昭和6年)。日本は、中国東北部での満州事変により、傀儡国家・満州国の建国を宣言。この事態により欧米諸国の警戒をさらに強め、孤立化が進んでいた。国際協調の道を模索していた稲造は、絶望する。そして、新聞記者にオフレコで語った言葉が大々的に報じられた。「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」。稲造は、激しい非難にさらされた。
そんなとき、昭和天皇から「アメリカに行ってくれないか」と要請される。その頃、アメリカでは、「排日移民法案」が制定。社会から日系人が締め出され、差別がエスカレートしていた。戦争へと向かいかねない日米関係を、なんとか修復したい。それが出来るのは、稲造しかいないと見込まれたのだ。だが、今、アメリカへ渡れば、日本では親米主義者と非難され、アメリカでは日本軍国主義の手先と見なされるのは必至。悩んだ末、稲造は、十和田の先祖の墓を訪れた。幼い頃から、先祖たちの苦労を繰り返し聞かされてきた。その苦労に比べたら、今の自分の立場など何ということもない。決心を固めた。

1932年(昭和7年)4月、70歳の稲造は、アメリカへと渡る。報道機関を回り、問題視されていた満州国建国について、日本の立場を懸命に、論理的に説明した。だが、日本を危険視していたアメリカ社会の理解を得ることは、なかなか叶わなかった。さらに、稲造の渡米中、日本で「5・15事件」が発生。軍部の青年将校が、時の首相・犬養毅を殺害するという前代未聞の事態だった。稲造と面会したフーヴァー大統領は、“日本の軍国主義が暴走しているのは明らかだ”と辛辣な言葉を投げかける。
翌1933年(昭和8年)。日本が国際連盟を脱退。稲造が初代事務次長として築き上げた日本の信頼は、水泡に帰した。その半年後、カナダで開かれた、第5回太平洋会議。稲造は直前に激しい腹痛に見舞われるが、日本代表として出席する。それは、日本に残された、唯一の国際会議の場だった。力を振り絞り、演説を行った。
「やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類ならびに国家の裁定者になる日がくるであろうと期待するのは、あまりに多くを望みすぎるのでしょうか」

会議から、2ヶ月後。稲造はカナダ、ビクトリア市の病院で死去。“義を見てなさざるは勇なきなり”。新渡戸稲造は、その死を持って、「武士道」を体現してみせた。

六平のひとり言

まさに真の国際人。
彼が「武士道」を著したからこそ、日本は世界に理解され、国際連盟の一員にもなれた。
新渡戸にとって戦争へと向かっていく日本を見続けることは、どんなに苦しかったかと思います。
新渡戸が知らしめてくれた「日本人の武士道精神」を、現代の私たちも、もう一度、見直すべきだと思ったね。