#48 2015年4月17日(金)放送 「幕末を駆け抜けた男たち」 新選組

新選組
(フィギュア提供:フルタ製菓)

近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八・・・今回の列伝は動乱の幕末に信義を貫き、駆け抜けた男たち「新選組」の2時間SP。武士に憧れた荒くれ者集団は鉄の掟「局中法度」を作り、誰よりも士道を重んじた。天下にその存在を知らしめた池田屋事件。その歴史的意味はあまりにも大きかった!しかし、時代は激動し、瓦解し始める新選組。五稜郭で討たれた土方の死をもって、消滅した。そして、時は大正・・意外な傑作が生まれる。

ゲスト

ゲスト 漫画家
黒鉄ヒロシ
ゲスト 作家
伊東潤

動乱の幕末、徳川幕府は、政権能力を失いつつあった。そして、幕府転覆をうかがう尊王攘夷の志士たちの活動。 倒幕か、佐幕か、開国か、攘夷か、日本が激動の時代への突入したその時、 武士として「徳川幕府を守り抜く」という信義を貫こうとした若者たちが登場する。 それが、新選組だった。

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(資料提供:霊山歴史館)

新選組誕生!

後に新選組局長となる近藤勇は、多摩一帯で広く学ばれていた武術「天然理心流」3代目宗家として、剣術指南をしていた。いつかは将軍のためにこの剣の腕を役立てたいという夢をもって。 しかし、農民出身の近藤は、幕府の師範役に応募するも失格。徳川家のために仕えるという志を持ちながらも、果たせない日々が続いていた。 そんな近藤の元に、その剣の技と人柄を慕って多くの腕に覚えのあるものが集うようになる。同じく農民出身の土方歳三はじめ、沖田総司、永倉新八。仙台藩脱藩の山南敬助など。いずれも、いつか晴れの舞台で思う存分剣をふるうことを夢見ていた。

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(資料提供:霊山歴史館)

チャンスが来たのは、1863年(文久3年)1月。京都へ向かう14代将軍・徳川家茂の警護の浪士を募集するという知らせが届く。試衛館の仲間と共に、参加の決意を固め京に上る近藤。しかし、それは、発案者・清河八郎の罠であった。実は清河の正体は、尊王攘夷の思想を持つ活動家。初めから、浪士組を倒幕に利用しようと考えていたのだ。 近藤は、清河と決裂。残留を決め、京都守護職に直訴したところ、会津藩預かりとなり、京、見廻りの役を与えられる。後の新選組の誕生だった。

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池田屋事件

1864年(元治元年)4月。新選組のもとに不穏な情報がもたらされる。 尊王攘夷派の長州藩士が、過激な行動を起こそうとしている。 市中は厳戒態勢となり、新選組は長州藩士らが潜伏する場所の探索を始める。かねてから密偵などを使い、探索を進めていた土方歳三は、商人、枡屋喜右衛門に目をつけ、枡屋を襲撃。すると、地下の秘密倉庫から大量の武器弾薬を発見。激しい拷問を行うと、驚くべき計画を口にする・・・ 風の強い折、御所に火を放ち混乱の最中、京都守護職・松平容保を暗殺。 天皇を長州へと連れ去るというのだ。 一刻の猶予も許されない。局長・近藤勇は隊員を緊急召集。ローラー作戦によって、不審な家や店舗を虱潰しに調べ上げる。 隊を二手に分け、捜索を開始した。そして、近藤は、長州藩邸から400mほど離れた 小さな宿屋、池田屋に、突入。切り裂く。そして、計画の首謀者、長州、土佐、肥後出身の藩士、およそ20名を相手に死闘を繰り広げ、突入から2時間後、死者7名。 池田屋の激闘は幕を下ろした。この池田屋事件は長州など幕府転覆を狙う志士たちにとって決定的な影響を及ぼすことになる。

崩壊の兆し

池田屋事件でその名を轟かせた新選組。しかし、その中に、一人、悩める男がいた。総長となった山南敬助である。山南は、文武両道の士であり、勤王の志を持つ者。心優しい温厚な性格から、隊士に「サンナン」の呼び名で慕われていた。その山南敬助が、「江戸へ行く」という書置きを残して新選組を脱走してしまったのだ。幹部・山南の脱走は、新選組に大きな衝撃を与える。土方は、すぐさま、一番隊隊長・沖田総司に、山南を追わせると、なんと山南は、京都からわずか数キロしか離れていない大津の宿にいた。結成以来の同志であっても、局の掟は曲げられない。近藤は幹部たちの前で山南に切腹を命じる。しかし、これこそが、新選組崩壊の序章となっていく。

新選組の最期

大政奉還が行われ、近藤、土方が守り抜こうとした幕府は消滅した。そして、1868年1月3日、京都の南、鳥羽・伏見方面にて旧幕府軍と新政府との戦いの火ぶたが切られる。負傷していた近藤勇に代わって、新選組の指揮を執ったのは、副長・土方歳三。しかし指揮官となった土方は、この戦いで愕然とする。薩摩の砲撃と銃撃による圧倒的な軍事力によって大敗を余儀なくされたのだ。すでに、刀で戦う武士の時代は終わっていた。さらに、土方に信じがたい情報がもたらされる。旧幕府軍の総大将、徳川慶喜が、前夜に 大坂城から脱出、江戸に舞い戻ったというのだ。

近藤は、江戸に戻り、新選組の再建をはかるべく奔走するも、そんな近藤も元から、創設以来の有志、永倉新八は去っていく。「私は、新選組の名を与えてくれた会津藩とともに戦う」と。近藤・土方率いる新選組は、旧幕府軍の脱走兵が集結しつつあった下総流山へと転陣。 瓦解した新選組の立て直しをはかろうとする。ところが、瞬く間に新政府軍に包囲され、絶体絶命の危機に。 切腹を覚悟する近藤を止める土方だったが、結局、近藤は、4月25日、板橋の刑場にて斬首。徳川家を守る忠臣として生きたかった近藤だが、逆賊して、腹を斬ることすら許されぬまま34年の生涯を閉じる。

同じころ、沖田総司も江戸で病死、享年27。近藤亡きあと、土方率いる新選組は、会津、宇都宮を転戦するも、敗走を続ける。なぜ武士は徳川のために戦わないのか? 武士にあこがれ続けた農民出身の土方は、最後の最後まで武士たらんとして生き抜こうとする。そして、函館に渡り、新政府軍と死闘を繰り広げた末、馬上で腹部を撃たれ倒れ、34年の生涯を閉じる。

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(資料提供:国立国会図書館)

そして傑作が生まれた

土方が戦死して7日後、五稜郭は新政府軍の手に落ち、新選組は消滅した。そして新しい時代が訪れる。幕府のために戦った新選組は、逆臣の汚名を着せられ、そのあまりに苛烈な剣ゆえに、暗殺集団とみなされた。

しかし・・・・・

1912年。北海道の地元紙、小樽新聞に、ある連載が始まる。タイトルは「永倉新八」。元新選組二番隊隊長、永倉新八がその語り手だった。武士としての信義を尽くそうと近藤と袂を分かった永倉は、戊辰戦争を生き抜き、大正になって、新選組を語り始めたのだ。意気揚々と旅立った上洛、そのまっすぐな思い。尊攘派の志士たちとの壮絶なる戦い。そして男たちの友情と訣別・・・幕府に殉じ戦った最後の武士たちの真の姿だった。

六平のひとり言

もう武士の時代が終わろうとしているときに、「武士になりたい!」
「武士でありたい!」と、ただその一心で幕末という大きな流れに立ち向かっていった男たち。
そのまっすぐさが、今現代でも、語り継がれるゆえんなんだと思う。
最後まで「士道」を貫いた土方、そしてその物語を語り継いだ永倉には、すがすがしさを感じます。