今回の列伝は長岡藩家老・河井継之助。激動の幕末、藩政改革を成功させ、小藩の生きる道を模索し続けた継之助。戊辰戦争が始まり、新政府軍から恭順を迫られる。新政府か会津か?河井継之助が下した決断とは!?運命の小千谷談判は決裂・・。戊辰戦争で最も熾烈を極めたとされる北越戦争へと突入していく。「武装中立」を宣言した男の波乱人生を紐解く。
昭和41年、司馬遼太郎が連載を開始した新聞小説「峠」。これによって脚光を浴びた歴史の立役者がいた。河井継之助である。7万4千石の小さな雪国・越後長岡藩の家老だった継之助は、戊辰戦争の波が押し寄せると、ある決断を下す。その決断が小藩の運命を大きく変えることになるのである。一体その決断とは? 今回は幕末維新を駆け抜けた、河井継之助の激動の人生に迫る!
文政10年元旦に河井継之助は長岡藩の中級武士の長男として生まれる。ところが藩校では全く勉強せず、馬術の稽古も師範の教えを足蹴にして疾走してしまう問題児だった。実は河井家は代々勘定方の家。当時武士の中でも金銭に関わる仕事は卑しいとされ、“そろばん侍”と差別されていた継之助は、「勉強しても蔑まれるだけだ」とひねくれていたのである。
ところが天保8年に起こった生田萬の乱が、11歳の継之助の魂を揺さぶる。生田萬は学者でありながら貧しい民のために決起したのだ。鎮圧されると自ら命を絶った生田萬に、「学問を究める人がなぜ民のために立ち上がったのか」と疑問を抱き、彼が究めた学問を学ぼうと決意する。その学問とは「陽明学」。「己は社会のために生きる、そして今の世が間違っていると思うなら、自分を犠牲にしても正すべき」という思想に、継之助は突き動かされ、「自らも学問を究めて世を正していこう」と決めた。
こうして日々勉強を続けていた継之助に転機が訪れる。継之助が27歳となった年、ペリーが浦賀へ来航し開国を迫ってきた。この国難に直面し、当時徳川幕府の老中だった長岡藩藩主牧野忠雅は広く意見を求めた。継之助も学んだことを生かすチャンスと、建言書を提出、すると継之助の意見が藩主の目に留まったのだ。これを機に継之助は藩政に関わるよう命じられ、大出世を遂げたのである。ところが…古参の老中たちは猛反対。あえなく辞任に追い込まれる。継之助はその後何年にも渡って長岡の野山を巡り、領民たちの暮らしを見て回った。すると民たちは貧しい暮らしを強いられている現実に直面。継之助は国の立て直しを心に決め、備中松山藩の陽明学者、山田方谷のところへ向かった。
方谷は赤字財政を立て直し、農民から家老に取り立てられた当代きっての陽明学者だった。この方谷に改革の手法を学びたいと懇願する継之助に、方谷は民の気持ちにたった改革の必要性を説き、その手法を継之助にあますことなく伝えた。この師の教えを受け、継之助もいつか民と心を一つにした改革をしようと心に誓うのだった。
方谷の元で改革の術を学んだ継之助は35歳で長岡へ帰還。その後、11代藩主牧野忠恭とともに藩政改革を実行に移す。実は当時長岡は23万両という莫大な負債を抱え、まったなしの状態だった。継之助は、「長岡の民の暮らしを良くするために、自らが学んだことを生かす時がようやく来た」と意気込み、次々と改革を断行していく。まず、役人ら武士には、当時当たり前とされていた賄賂を一切禁止し、裕福な庄屋などの民には、贅沢を禁止する奢侈禁止令を発布。さらに節制だけでなく経済の活性化も図るべきと、信濃川の河川通行料を撤廃し、規制緩和を図った。こうして3年で負債をすべて解消し、大きな黒字を生み出すまでに藩は豊かになった。
ところが・・・、長岡の外では時代は大きく動いていた。慶応3年10月、大政奉還によって、薩長の新政府軍が誕生。さらに翌年1月には鳥羽・伏見の戦いが旧幕府側と新政府軍の間で勃発。東北の会津とともに代々幕閣を務めてきた譜代大名の長岡藩もいずれ新政府軍の進撃を受けることは必至だった。当時長岡の兵はわずか1500、それに対し新政府軍は2万。このまま戦争になれば長岡の壊滅は避けられない状況だった。そこで継之助は江戸藩邸に走り、牧野家の美術品を家ごと売り払い、その資金で当時世界最強殺りく兵器ガトリング砲を購入、戦争になれば味方の犠牲が避けられない、それを少なくするための抑止力としたのだった。こうして継之助は、長岡の生き残りをかけて軍備強化を図った。
慶応4年4月26日、ついに長岡の国境で、会津と新政府軍の戦いが勃発。42歳の継之助はこの日、軍事総督に就任した。実は当時長岡藩はある選択を迫られていた。新政府軍はこの会津討伐に際し、長岡藩に対し3万両の献金と、会津討伐のために兵を出すよう命じ、恭順を迫っていたのだ。すでに多くの藩は寝返り、徹底抗戦と恭順で意見が割れていた。口を閉ざしていた軍事総督・継之助はついに動く時が来た。
5月2日、小千谷市にある慈眼寺(当時新政府軍の陣営)に継之助は会見を申し出た。そこで継之助は新政府軍に対し直談判に打って出たのである。土佐藩出身の軍艦・岩村精一郎に恭順するか否かの返答を迫られる中、継之助は高らかに述べた。その答えとは、長岡藩は恭順もせず会津にも属さず、中立を貫き、戦争の当事者にはならないというものだった。関ヶ原の戦い以来、どちらかにつくという考えしかなかった日本において、前代未聞の中立宣言だった。しかし、戦禍から小さな長岡を守るには、「戦争回避のために武装をして、発言力を強めて中立の立場をとる」という方法しかないと、継之助は考えていたのだった。
ところがまだ24歳だった岩村はこれを一蹴し30分で交渉決裂。これにより、5月10日には長岡藩は戦争の渦に巻き込まれる。2万人の新政府軍が押し寄せる中、継之助は1500の兵を率いて善戦。しかし継之助は戦場に倒れる。左ひざを打ち抜かれた継之助は負傷。その後長岡藩は総崩れとなり、7月29日には長岡城陥落。長岡の町は焦土と化したのだった。 傷が悪化した継之助は8月16日、福島県、塩沢集落で没する。享年42。
彼の生き方、判断は、賛否両論あると思う。
果たして本当にそれでよかったのか。
でも、継之助が長岡を心底愛していたのだけは確か。
小さくても、誇り高い藩として、歴史に名を遺したかったんだろうと思う。