今回の列伝はジョン万次郎。初めての漁で遭難、絶海の孤島にたどり着いた万次郎は14歳だった。数奇な運命を経て、16歳でアメリカ本土に渡り、24歳で帰国を果たした。時は列強諸国に開国を迫られた激動の幕末。日本で唯一世界を知る若者はさらなる歴史の波に翻弄されていく・・。幕末のキーマンの波乱の人生に迫る!
今回の列伝は開国の立役者・ジョン万次郎。
14歳の時、初めての漁で遭難。漂着した無人島での、過酷なサバイバル生活。そして漂流の末、アメリカへと渡り、懸命に取り組んだ英語と最新の航海術。やがて万次郎の存在は、黒船の来航によって開国を迫られた日本の大きな架け橋となった。ジョン万次郎の数奇な人生に迫る。
開国から遡ること27年前、後のジョン万次郎は、現在の高知県・土佐清水市の中ノ浜で、貧しい漁師の家に生まれた。早くに父を亡くし、母の女手一つで育てられた万次郎。将来の夢は、立派な漁師になって母に楽をさせることだった。そんな夢が実現しようとしていた矢先、波瀾の人生が幕を開ける。
それは1841年1月5日のことだった。14歳になった万次郎は、小さなかつお漁船の飯炊き係として、初めての漁に出る。船に乗り込んだのは、ベテランの船頭以下、5人の漁師。船は魚群を求めて沖へと向かうが、漁に出て3日目、にわかに海が荒れ始めた。大波が小さな船を襲い、やがて船は、黒潮の蛇行に乗り、猛烈なスピードで流されていった。そして8日後の1月14日、奇跡的に小さな島に辿り着く。そこは、足摺岬からおよそ750キロも離れた、伊豆諸島最南端の島、鳥島だった。しかし鳥島は絶海の孤島であり、過酷なサバイバル生活が始まる。食糧といえるようなものは殆どなく、唯一の獲物が、アホウドリだった。アホウドリで飢えをしのぎ、4か月が過ぎた頃、万次郎たちは、さらなるどん底へと突き落とされる。アホウドリが越冬の季節を終え、北へと渡って行ってしまったのだ。
ここで死ななければならないのかと覚悟していたある日、遠く島の沖合に1隻の船が見えた。それは、たまたま通りがかった、アメリカの捕鯨船だった。万次郎たちは無事救助され、5か月間に及んだ無人島生活に、ようやく終止符が打たれた。
万次郎たちを救助してくれたのは、全長34mものアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号だった。船長はウィリアム・ホイットフィールドで、34歳の若き指揮官だった。しかし、万次郎たちが安堵したのもつかの間。救助されたのが、アメリカの船だったことが次なる試練となる。
当時日本は鎖国をしていたため、アメリカ船は港に入る事が出来ないばかりか、たとえ運良く上陸出来たとしても、外国船に乗ったと知れれば、打ち首となってしまうのだ。しかし、絶望ばかりしていられないと万次郎たちはホイットフィールド船長の許しを得て、船の雑用係として働くようになる。そして救助から半年後の11月20日。ジョン・ハウランド号は、ある場所に寄港する。立ち寄ったのは、ハワイ・ホノルルの港だった。ホイットフィールド船長は到着早々、万次郎たちが中国を経て帰国出来るよう、取り計らってくれた。
そして2週間後、船がホノルルを出港する別れの日。万次郎は、船長から思いがけない言葉を告げられる。
「私と一緒にアメリカへ来ないか?」
船長の言葉に耳を疑いながら躊躇したものの、万次郎の答えは、「イエス!」。1841年12月、万次郎を乗せた船はホノルルを出港し、2年後、アメリカ・マサチューセッツ州の母港、ニューベッドフォードに帰った。ついに万次郎は、アメリカ上陸を果たす。16歳になっていた。
その後、船長が住むフェアヘブンで小学校に入学、英語の読み書きを学ぶことになった。そこは、藩の学校へも行けず、文字も書けなかった万次郎にとって、初めて通う学び舎だった。万次郎は船長の期待に添いたいと、猛勉強。やがてクラスで一番の成績をおさめるようになる。しかしそんな生活の中、心の中で片時も忘れなかったのは、母のことだった。“いつか必ず帰る・・・。”だが、そのチャンスはいつまでも来なかった。
1846年、19歳となった万次郎に、捕鯨船の乗組員にならないかという誘いがかかる。日本近海に向かうというのだ。“この船に乗れば母さんに会える!”と、万次郎は帰国を決意する。万次郎が荷物に詰め込んだのは、遭難以来、大切に持ち続けていた一枚の着物だった。それは母が作ってくれた着物。この着物と共に再び日本へ!
5月16日、万次郎はアメリカ東海岸のニューベッドフォードを出港、喜望峰を回り、パプアニューギニア、グアムを経て、日本近海へと戻って来た。そして翌年の3月、船は沖縄本島に接近する。当時、琉球王国だった沖縄は、薩摩藩の支配下ではあったものの独立国であり、鎖国中の日本とは異なり、東アジア貿易の中継基地でもあった。万次郎は、あの着物に着替え、小舟に乗り換えて上陸する。ところが、薩摩の役人が、“外国船から下りてきた人間をこのまま上陸させるわけにはいかない、今すぐ戻れ”と言う。万次郎は、これまでの事情を説明しようとするものの、片言の日本語しか話すことが出来なくなっていた。こうして帰国は失敗した。
3年後、ニューベッドフォードに帰ってきた万次郎は、再び帰国を目指す。しかし、日本近海を通る捕鯨船がすぐ見つかるわけもなかった。おりしも、アメリカはゴールドラッシュ。一攫千金を目論んだ万次郎は、水夫として船に乗り込み、海路でカリフォルニアの金鉱へ!そして死にもの狂いで働き、70日余りで600ドル、日本円でおよそ540万円余りを稼いだ。
1850年9月17日、その金を懐に、サンフランシスコから出航。途中ハワイで上陸用の小型ボートを購入し、上海行きの船に乗り換え、再び琉球を目指した。翌年の、2月2日。万次郎は船長に頼み、琉球本島から10キロの沖でボートを下ろしてもらい、翌日、ついに上陸に成功する! 10年ぶりの祖国の地。万次郎は、24歳の若者となっていた。
1853年7月。ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に現れる。ペリーは捕鯨船の日本での補給、難破船や乗組員の保護、貿易のための港の開港という、開国を要求した。それに対し、国内の意見は真っ二つに割れた。水戸藩主 徳川斉昭を中心とする攘夷派の、外国はあくまでも排斥すべきという意見と幕府老中 阿部正弘らの、開国やむなしという意見が衝突した。アメリカの真意がどこにあるのか分らなかった中、その実情を知ろうにも、彼の国が、どういう国かさえ知る者がいない。いや、ただ一人、万次郎がいた。
1853年、土佐藩・藩校の教授となっていた26歳の万次郎に、突如、江戸への出府命令が下る。呼び出したのは、老中 阿部正弘だった。阿部は万次郎にメリケンとは、どんな国か、彼らの狙いとは何なのかを問うた。万次郎は、自分が知るアメリカの事情をつぶさに語る。そして、こう加えた。「世界各国の内、御国の外は大抵同盟 又は通商国々にて互いに船 往来いたし」“世界で鎖国している国はない、日本も今開国すべき。”と訴えたのだ。この発言を重く見た阿部は、アメリカとの直接交渉の場に、万次郎が必要だと考え、幕府直参として登用。通訳として同席させようと考えた。“今こそ国家のために、自分の知識を役立てられる!”そう意気込む万次郎に、屈辱的な疑いが掛けられた・・・
開国という時代の大きなうねりの中、幕府は、欧米列強に対抗するため、1855年、海軍建設に乗り出し、教育機関を長崎と築地に設立する。その軍艦教授所の教授に抜擢されたのは、当時30歳の万次郎だった。アメリカの最新の航海術、測量術を教えられるのは、万次郎をおいて他にいなかった。後に軍艦教授所の責任者となる勝海舟は、万次郎から最新の知識を学ぶと共に、国の未来について、議論を交わしたという。
万次郎は常々こう語っていたと言われる。“アメリカは世襲でなく、民意によって政権が変わるのだ、”と。“幕府の時代は終わりだ・・。”そう感じていた勝は、万次郎から聞く西洋の事情に大いに心を動かされる。影響を受けたのは勝だけではなかった。万次郎の自宅には、志ある若者が次々と訪ねて来るようになっていた。“アメリカとはどんな国なのですか?”と、貪欲に知識を吸収しようとする若者達に対し万次郎は、世界の今を教えていく。やがてその私塾は、若者達からいつしか「中濱塾」と呼ばれるようになる。万次郎は伝えた。“自分の目で広い世界を見るのだ!そして、思うことをなして欲しい!“と。万次郎の思いは、幕末の若き志士たちを突き動かす。学問のすゝめを著す福沢諭吉、後に外務大臣となった榎本武揚、そして、三菱財閥の創業者となり、世界に羽ばたいた岩崎弥太郎など・・・。
運命に翻弄されながらも、自分の目で世界を見た万次郎。
その生き方そのものが、開国、維新という新しい時代の波を作り出す、大きな力となったのだ。
まさに時代が生んだ“奇跡の男”
14歳で初めての漁で遭難し、それが巡り巡って、日本の命運を
左右するような立場になるなんて。
よくもまあ、天は、ジョン万次郎をアメリカに導いてくれた。
歴史という大きな力に運命を導かれた人なんだと思った。