今回の列伝は徳川幕府2代目将軍・徳川秀忠。天下分け目の決戦・関が原の戦いに遅刻という大失態を演じた秀忠。凡庸な2代目と揶揄されながら、彼こそが徳川270年の礎を築いた男だった。ナンバー2に徹した、秀忠の生きざまに迫る。
徳川260年。家康が開いた幕府は、なぜかくも長く続いたのか?そこには、凡庸なる跡取り息子・徳川秀忠の存在があった。秀忠は家康亡きあと、自らの名で「武家諸法度」を公布し、戦のない時代を築き上げようとした「守りの将軍」。だが、偉大なる策士・家康の子であるにもかかわらず、その人生は屈辱の連続。ただ一つ秀忠は、常人には持ちえない恐るべき資質を備えていた。それは誰よりも「辛抱」ができること。
そんな秀忠が築き上げたのは、天才策略家・家康でさえ成しえなかった盤石の幕府だった。史上最高の二代目、徳川秀忠の生涯に迫る!
1579年、徳川秀忠は家康の三男として遠江国浜松で生まれた。幼名は長丸。母は家康の側室の一人でお愛の方とも呼ばれた、西郷局(さいごうのつぼね)。本来であれば、将軍になるはずもない側室が生んだ三男であった。しかし、秀忠の誕生から5か月後に起こった事件が、運命を変える。当時、徳川家康は、織田信長と同盟を組み、天下統一を目指して戦乱の世を勇躍していた。
いよいよ、甲斐の国の武田を破ろうとしていたその頃、徳川家に異変が起きる。家康には、正室・築山(つきやま)御前(ごぜん)との間に生まれた嫡男信康がいた。その信康が20歳の時、母と共に武田家との内通を疑われ、信長から処分を迫られる。家康はやむを得ず正室を殺害、そして嫡男信康には自害を命じた。更に次男の秀康に、家康は自分の本当の子ではないという疑念を抱き、後継者候補から外す。こうして、三男・秀忠が跡継ぎとなった。
家康は、徳川家の後継者として育てるべく、養育係として大姥局(おおばのつぼね)を指名する。彼女は家康の幼少時代の世話役であり、全幅の信頼を置く乳母だった。厳格で慈悲深かった大姥局の養育が、秀忠の成長に大きな影響を及ぼしたという。
そんな秀忠にも、戦国武将の子としての試練の日が訪れる。織田信長が本能寺の変で亡きあと、家康は、天下統一を目指す豊臣秀吉に対し、恭順の意を示すために秀忠を人質として差し出したのだ。秀忠は秀吉の元で元服し、長丸から秀忠と名を換える。「秀」の一字は、秀吉から与えられたものだった。やがて秀吉が天下人になると、家康は豊臣家の五大老・筆頭となる。
秀吉の元から返された秀忠は、新たに築かれた江戸城に入った。秀忠はここで、城づくり、町づくりに励み、父の代わりを務めるようになる。順調にステップを踏んでいたその矢先、22歳の秀忠に、人生最大のピンチが訪れる。
1598年、豊臣秀吉が死去した後、家康は満を持して天下取りへと動き出す。
やがて家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突する天下分け目の関が原の戦いへと発展。息子秀忠の初陣となる決戦に際し、家康は最強の軍隊を与えた。最も信頼する本多正信をはじめ、徳川四天王とうたわれた榊原康政、大久保忠隣ら歴戦の雄を付け、総勢3万8千の徳川本隊を指揮させたのだ。天下分け目の合戦で秀忠に活躍させ、自らの後継者としてアピールしたいと考えていた。
一方、父から盤石の軍を与えられた秀忠にとっても絶対失敗できない大役であった。1600年7月、秀忠は西軍との決戦に備えるべく本隊を率いて出陣。中山道を西へと向かった。9月1日、江戸を出陣した家康は東海道を進軍。ところが、この時秀忠は中山道をはずれ、信州の上田城へと向かった。実は上田城には西軍についた真田昌幸、信繁親子がいた。秀忠はまず上田城を落としてから西に向かおうと考えたのである。
秀忠軍3万8千に対し、敵兵はわずか3千。負けるはずはなかった。しかし真田方の度重なる罠や奇襲攻撃に、徳川の兵は次々と討たれ、何と3日経っても上田城を落とせない。秀忠は焦った。多少の犠牲が出ても、力づくで攻め落とそうと考えた秀忠に御目付役の本多正信は待ったをかける。
正信の忠告に従い、9月9日秀忠の軍は一週間遅れで再び西へ向かう。9月11日、清須城に到着した家康は、ここで秀忠の遅れを知った。東軍の先鋒からは矢のような出兵の催促が来ている。家康はやむなく秀忠軍抜きの闘いを決意した。
9月15日、いよいよ関が原の合戦が始まる。結果は、わずか半日で家康の東軍が勝利。秀忠がその事を知ったのは、9月17日。伝令のしらせを聞いてのことだった。何事にも動じない秀忠であったが、この時ばかりは大変なショックを受けたという。
本隊を指揮する者として痛恨の大遅参。秀忠は父家康の軍勢を必死に追いかけ、ようやく大津で追いついた。
しかし、怒り心頭の家康は・・・
「御不(ごふ)予(よ)」。
「気分がすぐれない」ことを理由に、秀忠からの面会を拒絶したのだった。
天下に知れ渡った関が原遅参という秀忠の汚名は、家臣団に、疑念を生むことになる。家臣の動揺を見て取った家康は、重臣を集め、後継者選定会議を開く。重臣たちが推したのは、次男の秀康と、関が原で活躍を見せた四男・忠吉。いずれも武勇に優れた存在だった。秀忠を推したのは、大久保忠隣ただ一人。その理由は「天下平定の後に必要なのは、武勇よりも文徳。それを備える秀忠様こそふさわしい」。
家康は、忠隣の意見を最もだとして、改めて秀忠を後継者に指名したのだった。
1603年、徳川家康は江戸に幕府を開く。しかしわずか2年後、あっさりと秀忠に将軍職を譲ると、自分は大御所として小田原で隠居を始める。将軍となった秀忠だったが実際は名ばかり。実権は大御所・家康が持ち続けていた。判断が必要なときは、いちいち駿府にお伺いを立てたのだ。周囲の目には、やはり凡庸なお飾り将軍と映っていた。
しかし、江戸城内には、秀忠の将軍としての能力を信じて疑わない人物がいた。養育係だった大姥局である。大姥局は今際の際、別れを告げに来た秀忠にこう言い残した。
「大殿から教えられた教訓を守って、天下大小の人に後ろ指を指されることがないよう何事も掟を守ること」
大姥局は、最も大切な政道の原則を秀忠に伝え、この世を去ったのだった。家康の言いつけに一切逆らう事無く、10年に渡り将軍職を続けた秀忠。やがて、あの痛恨の大失態、関が原遅参の汚名をそそぐチャンスが巡ってくる。
1614年、家康は豊臣家を滅亡に追い込むため兵を挙げ、大坂で陣を構える。秀忠はここぞとばかりに、6万という大軍をわずか17日間という短期間で江戸から京都まで進める。
ところが家康には、「大軍行程を急にせば、兵馬疲労せん。緩に来らるべし」とたしなめられてしまう。
結局秀忠は、父にいいところを見せられずじまい。そして1615年、夏の陣。ここで秀忠は、家康から大きな課題を突き付けられる。戦の最終局面、豊臣家に嫁いでいた秀忠の長女・千姫から淀君と夫・秀頼の助命を嘆願される。すると、これまで全ての指揮を執ってきた家康が判断を下さず側近にこう伝えた。
「このよし秀忠に伝えよ」
実の娘千姫から嘆願された、淀君と夫・秀頼の助命。しかし、ここで二人の命を助ければ将来何が起こるか。思い悩んだ末、秀忠が下した決断は・・・黙殺。その後、淀君と秀頼の自害によって豊臣家は滅亡。大坂の陣は徳川方の完全勝利に終わった。戦のあと家康は、こんな言葉を口にしたという。
「これまでは大小のこととなく、将軍から意見を求められたが、これからは何事も将軍が決められよ」。
秀忠は、ようやく父に認められたのだ。
1616年、徳川家康は74歳でこの世を去った。家康の死によって天下は乱れると考えていた秀忠は、この後、まるで豹変したかの様に、次々と厳格な政策を打ち出していく。真っ先に行ったのは、実の弟 松平忠輝に対する処分。忠輝は大坂の役の際、戦闘で傍観を決め込んだため家康に謹慎を申し渡されていた。秀忠はその上に、忠輝の領地を没収し地方に配流。身内に対し厳しい罰を与えたことにより、凡庸な二代目と秀忠のことを軽んじていた諸大名はこの処分に震えあがった。そして秀忠は、日本全国の大名に対しても、次々と厳しい処断を下していく。幕府存続の切り札として秀忠は「武家諸法度」という天下の大法を公布した。それは十三条からなる、いわば武家の法律。文武両道の奨励、新規築城の禁止など、大名を統制する為の基本方針が定められていた。
秀忠はこの「武家諸法度」の名において諸大名を処罰。関が原合戦で大きな功績をあげた福島正則に対しても、城を無断修復したという些細な罪で、領国を取り上げたのだ。その後も秀忠は、危険分子と見なした大名を次々と取り潰した。しかもその対象は外様だけでなく譜代や親藩にまで及んだのだ。こうして空いた所領は、幕府の直轄地として信頼の厚い大名にあてがい、体制の強化にあてたのである。攻めの政治から守りの政治へ。秀忠が公布した「武家諸法度」は、徳川幕藩体制260年の大きな礎となった。
偉大な父をもつプレッシャーは相当なものだったと思うけど、
その父をたて、父のすべてを受け継ぎながら、自分は自分の
新しい時代をつくっていった。
すばらしくバランス感覚のあった、まさに偉大な二代目だと思いました。