今回の列伝は皇女和宮。幕末、公武合体の象徴として14代将軍家茂と政略結婚したプリンセス。朝敵の汚名を着せられた徳川家を守るために、最後のキーマンとなった。江戸無血開城にむけて、和宮が幕臣たちに下した最後の命令とは・・・。時代の流れに翻弄されたプリンセスの激動の人生に迫る。
江戸時代の末、文久元年10月。総勢2万5千人。長さは50kmにも及ぶ花嫁行列が江戸へ向かっていた。それは、15歳の皇女和宮が、徳川家へと嫁ぐという、朝廷と幕府をむすぶための、前例なき政略結婚だった。当時、ペリー来航によって開国を余儀なくされた幕府。日々、批判が高まり、弾圧を試みるも、権威は急速に失墜する。そこで、和宮を正室として迎え、婚儀によって朝廷と幕府が融和し、権威を回復しようとしたのである。この政略結婚を、和宮は当初激しく拒絶した。だが、政治への発言権を強め、外国人を排斥する「攘夷」を実行させたい、兄の孝明天皇に説得され、渋々、江戸行きを承諾する。それは史上初となる、将軍家への降嫁となった。
江戸で始まった新生活。だが、前例が無い降嫁の前途は多難だった。和宮の姑、天璋院篤姫をはじめとする奥女中達と、和宮付きの女官達の間で、細かなしきたりを巡っていさかいが絶えず、和宮は言いようのない寂しさを覚えていた。だが、同い年の夫14代将軍徳川家茂は、和宮の心中をおもんぱかり、心を和ませてくれた。紆余曲折を経て将軍になった家茂は、政ごとの道具にされる苦痛と悲しみをわかってくれている。通じるものを見出した和宮は、家茂に魅かれ、やがて家茂のために元気な子を産みたいと、願うようになっていた。その一方、京都では不穏な空気が漂い始める・・・。
この頃京都では、公武合体に反対する藩士が暗殺され、御所周辺でも急進派が挙兵するなどの事件が多発。次第に倒幕の気運が熱を帯び始めていた。家茂は朝廷から攘夷の催促を迫られ、数度にわたり、京を訪れなければならなくなってしまう。そんな中、倒幕勢力の雄、長州藩との間で戦争が勃発。世にいう長州征討で、家茂は総大将となって戦うも、完敗。元々病弱で、この頃から体調を崩しはじめた夫の姿に、和宮は心を痛めた。家茂の無事を祈り、お百度参りもしたものの、慶応二年、家茂が大坂城にて病死。若い二人が一緒に暮らせたのは、わずか2年あまりだった。
家茂の死により、和宮が江戸城に残る理由は無くなった。日増しに高まる倒幕の気運を見こし、和宮の帰京を進言する者もいたが、和宮は江戸に留まり、亡き家茂の為に、そして徳川の為に生きると決めた。そんな中、慶応二年、薩摩藩が倒幕を目指す長州と同盟を結び、打倒幕府の狼煙をあげる。これに対し、将軍慶喜は、大政奉還を行うも、慶応4年、ついに、戦いの火ぶたが切られ、幕府軍は大敗する。朝廷は、薩長連合軍を官軍と認め、幕府を朝廷の敵、朝敵と決めつけてしまい、朝廷と幕府が、とうとう敵味方に分かれてしまったのだ。戦場から逃げ帰ってきた慶喜は、和宮に仲裁をと、泣きつく。交渉の窓口になれるのは自分しかいない。和宮の肩に、「徳川家の命運」がのしかかっていた。
慶応4年、江戸に総攻撃をかけるため、官軍は京都を出発。戊辰戦争が始まった。これに対し和宮は、慶喜に寺での謹慎を求め、自ら朝廷側へ手紙をしたためる。だがそれは、冷たくはねのけられ、江戸城総攻撃の日が決定される。そんな中、官軍の西郷隆盛と、幕臣・勝海舟による和平交渉が行われ、江戸城明け渡しを条件に、総攻撃の中止が決まった。しかし、江戸城には、戦わずして城を明け渡すことに不満を抱く幕臣たちが大勢いる。彼らが反乱を起こせば、徳川家は叩き潰されてしまう…。和宮は神君家康公の名を出し、謹慎を続けるよう幕臣達を必死に説得した。その熱意は幕臣達の心を捉え、江戸城は無血開城する。降嫁からわずか6年。徳川家の妻として、和宮は家と家臣を、守り抜いたのである。
あの江戸城無血開城の影で、和宮の渾身の努力があったとは!?
この人のおかげで相当な人の命が救われた。
徳川の娘だったらわかるけど、和宮は朝廷側の人。
いわばアウェイの立場の人間が、徳川家を愛し、
徳川家の人間としての立場を最後の最後に貫いたというのがなんともけなげ。
真の幕末スターの一人だね。