今回の列伝は明智光秀。日本の歴史を大きく揺るがした「本能寺の変」。なぜ、光秀は主君信長を討ったのか!?もし、信長が生きていたら、どんな日本になっていったのか…。3日天下で終わった光秀が描いた野望とは…。
本能寺の変までの波乱の生涯に迫る!
「敵は本能寺にあり」
今回の列伝は、日本史上最大のミステリー「本能寺の変」を起こした男、明智光秀。天下統一に向け突き進む織田信長に反旗を翻し、一夜にして日本の歴史を塗り替えた謎の武将である。信長を裏切った「反逆者」か、それとも歴史を変えた「英雄」か?明智光秀、その謎に包まれた素顔に迫る!
1568年、織田信長に警護されて上洛を果たした足利義昭は、ついに室町幕府15代将軍に就任。尾張の若き武将、織田信長の名声も天下に轟くこととなった。二人の橋渡し役を務めた光秀の手腕を評価した信長は、光秀を義昭のもとから引き抜き、織田家臣団の“中途採用組”として迎え入れたのだ。
荒くれ者たちが肩を並べる織田家臣団の中で、教養豊かで貴族とも親交がある知性派の光秀は、まさに異色の存在であった。天下統一を目論む信長は、京の事情に精通する光秀を利用して、当時の日本の中枢であった近畿地方の支配しようとしたのだ。
織田家で何の後ろ盾ももたない光秀にとって、家臣団内での出世競争は熾烈なものだった。成果を挙げなければ、いつ首を切られてもおかしくない。敬虔な仏教徒であったにも関わらず、比叡山の焼き討ちを命じられ、かつての主君の髑髏を盃に、酒を飲むことを強要されたこともあった。しかし、光秀は信長のその“踏絵”とも言える試練を次々とクリアし、わずか3年で家臣団最初の城持ち武将となったのだ。
いわゆる「智将」として描かれることが多いけど、実は、
武勇にもすぐれ、有職故実にも通じた、すごく洗練された人だった。
実は、信長が一番頼りにしていたのは、柴田勝家でも秀吉でもなく、光秀だったのだと思う。
主君を殺した「負」のイメージがあるけれど、日本の長い歴史の中で見れば、
「本能寺の変」がまさに大きなターニングポイント。
それを成し遂げたと考えれば、光秀がやったことは歴史の「負」ではなく、
確実に歴史を進めた偉業だったと思う。