今回の列伝は維新の英傑・西郷隆盛。江戸城無血開城を決断し徳川幕府を終わらせ、廃藩置県を断行するなど、次々と近代国家の礎を築いた。しかし、その明治維新最大の功労者が、征韓論で失脚させられ、西南戦争で逆賊の汚名を背負ったままこの世を去った。西郷が最後まで貫いた「敬天愛人」とは?その激動の生涯に迫る。
今回の歴史列伝は、明治維新最大の立役者と言われる西郷隆盛。東京・上野の銅像で知られ、今も“西郷さん”の愛称で人々に親しまれている。しかしその西郷さん、明治維新の後、西南戦争を起こし逆族として政府軍と戦った。その陰には「全ての人を愛し抜く」という信念があった。日本再生の原動力となった西郷隆盛、その壮絶な人生の裏側に迫る!
西郷隆盛の運命は31歳の時に大きく変わる。藩主・島津斉彬が急死。西郷は後を追って自決を試みるも周囲に止められ断念する。その後、島津久光が藩主となるが、藩内のお家騒動などで久光派と仲が良くなかった西郷は度々、意見衝突した。そして二度の島流しとなり薩摩から離れることに。
島流し先で西郷は、貧しい島民の生活を助けようと寺子屋を作り、田を耕した。また島の女性、愛加那と結婚し子供も授かる。37歳の時、親友・大久保利通が久光に進言したことで、放免され藩に戻ることができた。戻ってからの西郷は、獅子奮迅の活躍をする。禁門の変で長州藩を打ち破り、その後、長州の力が必要だと考え、あの薩長同盟を結ぶ。大政奉還が成し遂げられると、それに対抗して王政復古の大号令を出し、新政府誕生に大きく活躍した。
明治新政府が誕生すると、西郷は参議として改革に乗り出す。まず廃藩置県を断行して封建制度の終焉に手を打つ。これにより大名や全国の武士40万人が職を失った。
その後、岩倉具視や大久保利通ら新政府の主要が欧米視察に出発すると、西郷は留守内閣を預かり、次々と改革を断行していく。学性改革や身分制度の廃止、通貨制度、裁判所の開設など、1年半で日本は目まぐるしく変わっていた。さらに当時貿易が停止していた朝鮮との外交にも着手。自ら使節として交渉に行くことを閣議決定した。
改革を推し進める西郷の裏で、新政府内の汚職が次々と発覚。資材を蓄え、豪華な暮らしにうつつを抜かす者たちがいた。さらに山縣有朋や井上馨は、金銭絡みのスキャンダルを巻き起こした。西郷はすぐさま二人を更迭し、自分の信念に基づいて改革を断行した。
ところが欧米使節団が帰国すると西郷の立場は一変する。実は使節団が出発前に、留守内閣は大規模な改革は行わないと盟約を取り交わしていた。しかし西郷は数々の改革を断行。さらに陸軍大将で軍も動かせる存在だった。岩倉具視や木戸孝允は警戒を強め、西郷の政策の一つ、朝鮮使節を断固反対する。最終的に西郷の朝鮮行きは天皇の命により中止となり、新政府内で孤立した西郷は故郷・鹿児島に帰ることとなった。
鹿児島に戻った西郷は田畑を耕し、狩りに興じた。静かに余生を送るつもりだった。しかし西郷を慕って多くの士族たちが集まってくると、彼らのために私学校を作った。私学校では徴兵制に備えて鉄砲や大砲などを教えた。それは廃藩置県により行き場を失った士族たちの受け皿でもあった。
しかし廃刀令が発令されると、士族たちの不満が爆発。自分たちの刀まで奪うのかと各地で反乱が起こった。反乱を鎮めていく政府軍。最も警戒したのは鹿児島にある西郷の私学校だった。
そこで鹿児島にあった弾薬を密かに運び出そうとした新政府軍。しかし西郷の私学校生徒に見つかり略奪されてしまう。もはや血気盛んな士族たちは後戻りできなかった。西郷は「おいの身体、おはんらに差し上げもんそ。」と言い、挙兵。西郷は逆族として2万の兵を率い、明治政府に立ち向う。西南戦争の勃発だった。そして熊本城で西郷軍と新政府軍が衝突。最新の兵器を使い、次々と到着する新政府軍に敗北を重ねながら、7ヶ月後、西郷軍は鹿児島に戻ってきた。その時、兵は300人にまで減り、周りを7万の新政府軍が取り囲んでいた。
金も命も名誉もいらない。
一度約束したことは、どんなことでも成し遂げる。
これって、今の政治家に一番欠けていることじゃない?
一度言ったこと、破る人なんかざらにいるからね。
1日いたら1日分、10日いたら10日分
好きになってしまうという西郷さんに、一度、会ってみたかった!