今回の列伝は徳川泰平の世を作り出した名君・会津藩主保科正之。2代将軍秀忠のご落胤として江戸市中で生まれた複雑な出自。兄の3代将軍家光に見いだされ、徳川幕府の中心として、文治政治への転換はかり、江戸の泰平を作りだした。晩年に正之が残した「家訓15箇条」は、その会津の人たちに連綿と受け継がれた。
今回の列伝は、江戸の平和の礎を築いた、会津藩主・保科正之。関が原の戦い以後も、大坂の陣や島原の乱など、争いが絶えなかった時代に、天下泰平の世をもたらした。将軍の子として生まれながら、不遇な少年時代。兄・3代将軍、家光との出会いが運命を変え、4代将軍・家綱の後見人に。
そして、江戸の町を焼き尽くす大火の中で繰り出した、驚きの復興策とは?名君・保科正之の生涯に迫る!
高遠は、急峻な山あいにある小さな藩。正之は高遠城で、養父・保科正光に迎えられた。実子がいなかった正光は、利発な正之を一目見て気に入り、すぐさま教育を始めた。水練の稽古では、甲冑を着て川を泳がせるという厳しさだった。そして、儒学に基づいた、保科家の帝王学を授ける。それは、民を搾取しない、民のための政治だった。保科家では、常識とは一線を画し、独自の政策として、民が共同で持っている山でとれた材木を、自由に分け与えていた。正之は父の期待に応えるべく帝王学を学んでいくが、正之が21歳の時、正光が亡くなった。正之は、高遠藩主となる。民が幸福になる藩を作りたい・・・この時はまだ、それが自分の人生だと信じて疑わなかった。
3代将軍・家光は偶然、自分に正之という腹違いの弟がいることを知る。家光は、弟・忠長との跡目争いの末に将軍の座を勝ち取り、その後も確執が続いていた。もう一人の弟が現れ、正之も敵なのかと、心中穏やかでなかった。
そこでこんな計略を巡らせる。江戸城で、正之がいつものように末席に座っていると、家光が、正之の上座につける者はいないだろうと、自分の弟であることを宣言。正之がどんな反応をするのか、試したのだ。慌てた大名たちは、正之に上座をすすめる。しかし正之は、自分は若輩者だからと言い張り、末席から動こうとしない。大名たちは正之の下座に就こうと、廊下に溢れ出てしまった。
分をわきまえた正之の性格をこころよく思った家光は、父・秀忠が死去すると、正之に墓所の造営を命じる。そして、高遠3万石から山形20万石の大名に大抜擢。正之は、兄の恩に報いるために、徳川を支える人間になると心に誓った。翌年、島原と天草の民が、過重な年貢とキリシタンの迫害に抵抗した「島原の乱」が起こる。諸大名が手柄を立てるべく島原へ向かう中、正之は国元である山形に戻る。西国に異変がある時にこそ東国に注意せよという家康の遺訓に従った、徳川家としての行動だった。島原の乱は、幕府軍およそ千人、反乱軍およそ2万5千人が犠牲となって収束。これは、民を搾取し、弾圧する事で起こったこと。これからは、武力による政治を変えなければ、また反乱が起きてしまう・・・家光の信頼を得ていた正之は、幕府の政治に関わる立場になった。そして正之は、幕府にとって北の守りの要所である会津23万石へうつされる。家光は病に倒れ、臨終の床で、正之に次期将軍・家綱の補佐を託した。正之は、命に代えても家綱を守りぬくと決意した。
1657年(明暦3年)冬。江戸に未曾有の災害をもたらす明暦の大火が起こる。その火は、またたくまに江戸城に襲いかかり、将軍・家綱の身が危ぶまれる。老中たちは、城外にある自分たちの邸に避難するよう勧めるが、正之は、たとえ城が焼失しても、将軍が場所を変えてはならないと言い放った。
そして、幕府が貯蓄している浅草の米蔵に火がかかる。考え抜いた正之が命じたのは、火を消した民には米を与えるという前代未聞のお触れ。国庫の消火と、避難民への救助米の支給という、一石二鳥の策だった。
しかし、ついに江戸城天守閣は焼け落ち、死者は10万を超えた。火が鎮まったのも束の間、今度は大雪が降る。正之は、江戸市中の六か所で、1日なんと千俵もの粥の炊き出しを決め、多くの民が餓死を免れた。その後も正之は江戸の復興を進め、2年後、江戸城の再建が完成する。しかしそこには、威容を誇った天守閣の姿はなかった。正之が、天守閣再建の費用を、江戸の町の復興のために使うべきだと主張したのである。
江戸泰平の世を作り上げたのは、
家康公でも三代家光でもなく、この人!保科正之だった!!
正直、ほとんどその業績を知らない人だったけど、
江戸城の天守閣がないことに代表される彼の非凡な業績と、
あまりにも誠実、実直な人柄に感動しました。