今回の列伝は、伝説の剛速球投手「沢村栄治」。17歳の時に米国のホームラン王ベーブ・ルースから三振を奪い、日本プロ野球創立時から活躍、3度のノーヒット・ノーランを達成した。しかし、日中戦争が勃発。球界のスターも激戦の地に送られ負傷、帰国後にはかつての剛速球を投げることできない体になっていた。3度の応召で剛速球から技巧派への転向を余儀なくされ、最後には戦力外通告を受ける。悲劇の名投手の苦難の人生に迫る。
今回の列伝は、不滅の名投手、沢村栄治。日本プロ野球黎明期にベーブ・ルースから三振を奪い、3度のノーヒット・ノーランを達成した伝説の投手である。しかし輝かしい成績とは裏腹に度重なる出征により身体が蝕まれていく。ボロボロになりながら、フォームを変えマウンドに立ち続けた沢村栄治の波乱の人生に迫る。
第10戦。静岡県草薙球場で行われたこの試合は、後に語り継がれる伝説となる。アメリカの先発はホワイトヒル、日本は沢村栄治、2度目の登板。一回表、日本の攻撃は、ホワイトヒルの投球に押さえられ、あっという間に終わる。「今日も惨敗か…」観客席は半ばあきらめムード。しかし沢村はメジャーリーガーから次々と三振を打ち取り、なんとベーブ・ルースをも三振に打ち取ったのである。草薙球場が2万人の大歓声に沸いた。
その後日本選抜チームから設立された東京ジャイアンツを皮切りに、日本プロ野球が発足した。沢村はジャイアンツの投手として日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーランを達成し、リーグ戦優勝に貢献。MVPも獲得するなど日本一の投手としての名声を得るまでになった。
1年3か月後。再び生きて帰国を果たし、再度の球界復帰を果たした沢村。しかし、投げるたび、全身に激痛が走る。既にその肉体からは、選手生命の全てが失われていた。沢村はサイドスローから、アンダースローへ再びフォームを変えた。しかし、この年のリーグ成績、0勝3敗、防御率10.64。もはやプロとして通用することはなかった。球団は沢村に戦力外通告を言い渡す。更に沢村へ3度目の召集令状がやってきた。1944年(昭和19年)、沢村を乗せ戦地へ向かう船が台湾沖で撃沈。27年の生涯に幕を閉じた。
終戦後の1947年(昭和22年)、黎明期のプロ野球に貢献した沢村に敬意を払い、「沢村栄治賞」が設立された。これは、その年の優れた投手1人だけに送られる特別賞。第1回受賞者、別所毅彦をはじめ、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中将大など名ピッチャー達に送られてきた。
野球に一生を捧げた天才投手・沢村英治の熱き情熱は、この賞とともに、今も野球を愛する人々の心の中に受け継がれていく。
スター性と抜きんでた才能と、
野球への愛と野球選手としてのすべてを持っていた人なのに、
戦争に3度も行くことになるなんて、
あまりにも不運で、悲しすぎるし悔しすぎる。
彼のプレーや監督としての姿を見てみたかったと心から思います。