#36 2014年12月26日(金)放送 日本初のノーベル賞 湯川秀樹

湯川秀樹

今回の列伝は、日本初のノーベル賞科学者・湯川秀樹。物言わぬ少年時代、未知の領域・量子論との出会い、苦悩の研究生活…。しかし、28歳で書いた「中間子」の論文は物理の世界を一変させた。そして、戦争、アインシュタインとの出会いが、湯川をあることに突き動かした…。天才科学者の波瀾万丈の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 物理学者
佐藤文隆

今回の列伝は、日本初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹。1949年、「中間子の予言」でノーベル物理学賞を受賞する。それは、当時占領下にあった日本人にとって大きな自信と希望になる出来事だった。その後、湯川は物理学の普及に努めるとともに、核兵器と戦争の廃絶に精力を注ぐ。戦争と科学という激動の時代を生き抜いた湯川の波乱の人生に迫る。

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“イワンちゃん”もの言わぬ天才少年

湯川秀樹は1907年、地質学者の小川琢治(たくじ)の三男として生まれる。京都大学で教鞭をとっていた父は子供たちにも学者の道を歩ませようとする。秀才の兄たちに比べ、引っ込み思案で、ものを言い出せない子供だった湯川、そんな彼が小学校の時に呼ばれていたのは“イワンちゃん”。トルストイの「イワンの馬鹿」をかけて付けられたあだ名だった。すっかり父の心配の種となっていた湯川だったが、当の本人は中学校時代には老子荘子などの中国古典思想の本を読みこなし、数学でも非凡な才能を持っていた。父はある時、中学校の校長からそのことを聞き、湯川に学者の道を歩ませようと決心する。

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世界最大の難問

高校に入学した湯川に物理学者としての運命を決定するある出来事があった。それは一冊の洋書との出会い。それはドイツの物理学者、フリッツ・ライへが著した「量子論」という書籍であった。量子論とは、原子や電子、光といった極微小な世界の正体に迫るヨーロッパで生まれつつあった新たな物理学であった。その書籍から、未だ解明されない謎に満ちた革命的な最新科学に惹かれた湯川、京都大学に入学し研究者の道を歩むことになる。しかし、それはイバラの道だった。大学時代は、最新の科学を教える教師も施設もないまま、完全に独学で研究を行う。卒業後は研究者としても引き取り手もないまま、無給の副手として研究室に残ることになる。ようやく、大阪大学で講師の職を得たものの主任教授に“大学卒業後、まだ一本も論文を書いていない”と叱責されてしまう始末だった。

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中間子の予言

1932年、結婚し新たな生活を始めた湯川。その年は物理学の世界で「中性子の発見」という大発見があった年でもあった。その大発見から生まれた謎が、湯川の論文のテーマとなった。それは「原子核の中で、どうして陽子と中性子がバラバラにならずにいられるのか」というもの。当時世界中の物理学者が解明に挑んだ難問に湯川も挑戦していた。そして、その謎の解明に勤しむ湯川は不眠症に苦しみ寝室を転々としながら、2年後、次男誕生を機に理論の証明に成功する。そして、湯川の書いた「中間子の予言」する論文は世界から脚光を浴びる。極東の無名の学者が、一躍“世界のユカワ”となったのだ。

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F号研究

1939年、湯川は渡欧渡米し世界的物理学者と交流を重ねる。その中にアインシュタインがいた。当時ドイツからアメリカに亡命していたアインシュタインは、ナチスドイツに先を越されないよう、F・ルーズベルト大統領に原子爆弾の開発を進言していた。そして、日米開戦の翌年、アメリカでは原爆開発計画が始まる。機を一にして日本でも二号研究・F号研究という原爆研究が始まった。そのF号研究に湯川も参加することになる。そして、1945年8月6日、広島に原爆が投下される。戦後、その惨状を知ったアインシュタインは湯川に会い原爆投下について謝罪する。そして、湯川にこう言ったという。「私と一緒に、核兵器全廃の運動をしてほしい」と。

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平和運動の旗手として

1949年、日本初のノーベル賞を受賞した湯川。敗戦によって打ちひしがれた日本人にとってノーベル受賞の知らせは大きな自信と希望になった。しかし、1954年、湯川に耐え難い悲劇の知らせが届く。第五福竜丸事件、アメリカの水爆実験により、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被ばくしてしまったのだ。物理学者によって新たな作られた水素爆弾という新たな核兵器。湯川はすぐに立ち上がり、核廃絶を訴えた。そして、1955年一つの宣言が発表される。ラッセル・アインシュタイン宣言。核兵器と戦争の全廃を目的とするこの宣言にアインシュタインとともに湯川の名前が署名されている。それは物質の世界の謎を解き明かした科学者たちが世界に残したメッセージであった。

六平のひとり言

すっと論文一つも書けず、教授に怒られ、肩身の狭い思いをし、
そして、ついに書き上げた1本目の論文が、なんと!ノーベル賞!
しかも、どこに留学したわけでもなく、自分の頭の中だけで考えたことだよ!驚愕です。
そして、その自分の研究分野が、核兵器につながったことは慙愧に絶えなかったに違いない。
一人の学者を超えて、オピニオンリーダーとして日本を引っ張ってくれた。尊敬します。