今回の列伝は、日本初のノーベル賞科学者・湯川秀樹。物言わぬ少年時代、未知の領域・量子論との出会い、苦悩の研究生活…。しかし、28歳で書いた「中間子」の論文は物理の世界を一変させた。そして、戦争、アインシュタインとの出会いが、湯川をあることに突き動かした…。天才科学者の波瀾万丈の人生に迫る。
今回の列伝は、日本初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹。1949年、「中間子の予言」でノーベル物理学賞を受賞する。それは、当時占領下にあった日本人にとって大きな自信と希望になる出来事だった。その後、湯川は物理学の普及に努めるとともに、核兵器と戦争の廃絶に精力を注ぐ。戦争と科学という激動の時代を生き抜いた湯川の波乱の人生に迫る。
1932年、結婚し新たな生活を始めた湯川。その年は物理学の世界で「中性子の発見」という大発見があった年でもあった。その大発見から生まれた謎が、湯川の論文のテーマとなった。それは「原子核の中で、どうして陽子と中性子がバラバラにならずにいられるのか」というもの。当時世界中の物理学者が解明に挑んだ難問に湯川も挑戦していた。そして、その謎の解明に勤しむ湯川は不眠症に苦しみ寝室を転々としながら、2年後、次男誕生を機に理論の証明に成功する。そして、湯川の書いた「中間子の予言」する論文は世界から脚光を浴びる。極東の無名の学者が、一躍“世界のユカワ”となったのだ。
すっと論文一つも書けず、教授に怒られ、肩身の狭い思いをし、
そして、ついに書き上げた1本目の論文が、なんと!ノーベル賞!
しかも、どこに留学したわけでもなく、自分の頭の中だけで考えたことだよ!驚愕です。
そして、その自分の研究分野が、核兵器につながったことは慙愧に絶えなかったに違いない。
一人の学者を超えて、オピニオンリーダーとして日本を引っ張ってくれた。尊敬します。