#35 2014年12月19日(金)放送 「命のビザ」外交官 杉原千畝

杉原千畝

今回の列伝は、第2次世界大戦中、押し寄せるユダヤ難民たちに日本通過ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官・杉原千畝。人道か、国策か?ただの外交官ではなく、インテリジェントオフィサーとして活躍した杉原の苦悩の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 外交ジャーナリスト
手嶋龍一

今回の列伝は、第2次世界大戦下に6000人のユダヤ人を救った外交官・杉原千畝。リトアニアの日本領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツから逃れようとするユダヤ難民たちのため、国の方針に抗って大量のビザを発給。後に、ユダヤ社会から大きな感謝を受けた。「命のビザ」に至る道のりにあったのは、“インテリジェンス・オフィサー(情報士官)”としての知られざる杉原の姿、そして、“国策”と“人道”の狭間で闘い続けた波乱の人生だった。

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留学生としてスタート

1900年(明治33年)、杉原千畝は岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。幼い頃から成績優秀。得意の英語を活かした仕事を夢見て、18歳で早稲田大学高等師範部の英語科に入学する。しかし、「立派な医者になって欲しい」という父親の望みを断ったために一切仕送りを貰えず、アルバイトに明け暮れていた。
そんなある日、新聞に載っていた「外務省留学生の募集」という広告を目にする。官費で3年間語学留学し、そののち成績優秀者は外交官として採用されるというチャンスだった。猛勉強の末、みごと留学生試験に合格。ロシア語が専攻語学となり、中国東北部・満州のハルビンで学ぶこととなった。

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満州

満州へ渡って3年後、24歳で外務省書記生に採用される。任された任務は、当時日本と緊張状態にあったソ連との関係を有利に進めるための、水面下での活動だった。近年発見された資料に、具体的な記述が残されている。「ソ連領事館に保管されていた暗号書を盗み出す陰謀に参加」。そして、「“怪露人・チェルニャエク”と接触し、諜報者として操縦」。次々に機密情報を入手し、本国へ送り届けていた。

1931年(昭和6年)、事態が急転する。日本が経営権を持つ南満州鉄道が爆破されたことを契機に、満州事変が勃発。鉄道の爆破は、関東軍が自ら引き起こした事件だった。満州を支配した日本は、傀儡国家である満州国の建国を宣言する。そして、満州国外交部へ配属された杉原は、大仕事を任される。中国とソ連が共同所有していた北満州鉄道の譲渡交渉だった。日本側が提示した買収額5000万円に対し、ソ連の要求は6億2500万円。10倍以上もの金額差だった。杉原は、ソ連が売却交渉を前に車両や機材を自国に引き上げていることを突き止め、ソ連の高額な要求額の根拠を次々と否定。その結果、譲渡額を1億4000万円で決着させた。すると、対ソ連のエキスパートとして名を馳せた杉原の元に、関東軍の幹部が現れる。軍のスパイとして働いてくれという工作だった。だが、国のために情報戦には身を投じるが、武力には絶対に加担しないというのが杉原の信念だった。軍の勧誘を断ると同時に、満州国外交部を辞職。35歳で、ひとり日本へ帰国した。

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運命の地

1936年(昭和11年)、本国の外務省に復職していた杉原に、モスクワ大使館赴任の命が下る。だが、ソ連が杉原の入国を拒否。他国の外交官の入国を拒否するという、異例の通達だった。ソ連が北満鉄道譲渡交渉で見せつけられた杉原の手腕を恐れたためだと考えられている。
その2年後、ヨーロッパの小国・リトアニアへの赴任が決まる。託されたのは、緊迫したヨーロッパ情勢を巡る機密情報の収集だった。この頃、日本の友好国・ドイツが、共通の敵国であったはずのソ連と「独ソ不可侵条約」を締結。ソ連、そしてドイツの真意が分からず、日本外交は混乱に陥っていた。
杉原がリトアニアに到着して4日後、ドイツ軍が隣国ポーランドへ侵攻。それを受けてイギリスとフランスがドイツに宣戦布告、第2次世界大戦の火ぶたが切られた。家族の身の安全も危ぶまれるなか、杉原はソ連、そしてドイツの動向をとらえるため、情報の収集に奔走する。
リトアニア赴任から一年後、ソ連軍がリトアニアに侵攻。そして、杉原にソ連から通達が届く。「リトアニアは独立国ではなくなったため、各国は領事館を閉鎖し、領事館員及びその家族は、国外退去すべし」。残された時間はあとひと月。出来る限りの情報を本国へ送ることで、杉原の任務は終わるはずだった。

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押し寄せたユダヤ難民

1940年(昭和15年)7月18日、朝。杉原の居る日本領事館に、100人近くもの群衆が押し寄せた。彼らは、ナチス・ドイツに占領されたポーランドから逃れてきた、ユダヤ人たちだった。ナチス・ドイツのヒトラーは、ユダヤ人の追放で国民の血気をあおり、強制収容所送りという残虐な人種差別政策を進めていた。ナチスに支配されたポーランドから、命の危険を察知したユダヤ人たちが、隣国リトアニアへと脱出していた。彼らがナチスから逃れる道は、ソ連をシベリア鉄道で横断し、日本へ渡り、そののち、アメリカなど第三国に移住するというルートただ一つ。命のかかった「日本の通過ビザ」を求め、杉原の元へ駆け込んだのだ。

杉原は、外務省本省へビザ発給の許可を求める電報を送る。外務省からの返信は、「行先き国の入国許可を持っているものだけ通せ。無条件に難民を受け入れるわけにはいかない」というものだった。日独伊三国同盟の締結に向け交渉を続けていた日本には、ドイツを刺激するわけにはいかないという事情もあった。しかし、領事館に押し寄せているのは、着の身着のままでポーランドを脱出した人ばかり。ビザ発給に必要な書類はもちろん、充分な旅費さえ持ち合せていない。杉原は再び、「彼らは逼迫した状況にあり、特別にビザを発給しても良いのではないか」と、本省に問いかける。しかし、本省の判断は変わらなかった。もし無断で大量のビザを発給した場合、自分はおろか家族の身もどうなるか分からない。幼い子供とともにナチス・ドイツに捕らえられる可能性も、無いとは言えなかった。

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「命のビザ」

ユダヤ難民たちが押し寄せてから、11日目の朝。
杉原は、妻・幸子に語りかけた。

「外務省に背いて、領事の権限でビザを出そうと思う」
「わたし達はどうなるか分かりませんけど、そうしてあげてください」(杉原幸子著「六千人の命のビザ」より)

杉原は領事館を開放し、数百人に膨れ上がったユダヤ難民たちに死にもの狂いでビザを書き始めた。一人一人の素性や行先国、所持金の額、通過条件の申し送りなどを詳細に書き込まなければならない。タイムリミットが迫っていた。およそ2週間後、日本ではユダヤ難民たちが到着し始め、その対応が、大きな問題になっていた。杉原に、外務省からあらためて「条件を満たさぬ者には通過ビザは与えるな」という電報が届く。この最後通告も無視し、ビザを書き続けた杉原。決断について、こう語っている。

“対ナチ協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビザを拒否してもかまわないとでもいうのか?それが果たして国益に叶うことだというのか?”
(杉原本人の手記より)

杉原が書いたビザの総数は、2139枚。家族も含めたおよそ6000人のユダヤ人の命が救われたと言われる。終戦後帰国した杉原は、無断のビザ発給をとがめられ、外務省を退職。その後商社のモスクワ支店長など9つの仕事に就いた。一切リトアニアでの出来事を口にしなかったという。
69歳のとき、イスラエルに招かれ、勲章を授与される。イスラエルに多く移り住んでいた、あの時のユダヤ難民たちは、ビザへの感謝を伝えたいと、ずっと杉原を探していた。
晩年、杉原はこう言い残した。

“私のしたことは、外交官としては間違ったことだったかも知れない。しかし、私には何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。私の行為は歴史が審判してくれるだろう”
(杉原幸子著「六千人の命のビザ」より)

六平のひとり言

自分の判断基準をもち、自分のやり方を貫いた杉原。
すべての根幹は、「国家のためにどうすることが役立つか。
国家はどちらの方向に進めばいいのか。」ということ。
混沌とした時代に、国のために常に「正しい判断材料」を
与えようとした杉原の知られざる努力を知って感銘しました。
最後のビザ発給に至るまで、「自分の物差し」は変えなかった。
その信念はすごいと思う。