#34 2014年12月12日(金)放送 日本一の悪役 吉良上野介

吉良上野介

今回の列伝は、赤穂浪士の討ち入りされたことで、日本一の悪役になった「吉良上野介」。だが、一方的に切り付けられた被害者という視点でみると、別の物語が見えてくる。江戸庶民に人気が高い「忠臣蔵」では描かれない、吉良上野介の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 東京大学 史料編纂所教授
山本博文
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日本一の悪役 吉良上野介

およそ300年もの間、親しまれてきた「忠臣蔵」。その影の立役者こそが、吉良上野介。主君の無念を晴らさんとする義士達によって討ち取られる敵役である。だが、全ての発端、元禄14年、江戸城・松の廊下の刃傷沙汰を詳しく紐解くと、そこには、1人の悲劇的な男の運命が隠されていた!稀代の悪役は如何にして誕生したか?その真相に迫る!

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松の廊下“事件”

元禄14年3月。江戸城では、重要な儀式の準備が進められていた。時の将軍綱吉の元へ天皇、上皇からの使者が遣わされ、年始の詔を伝える典礼が行われる。その全てを取り仕切っていたのが、吉良上野介。そして、上野介の指示に従う、勅使饗応役の浅野内匠頭だった。だが、35歳の内匠頭は、何度言っても過ちを繰り返す。

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不安を抱えたまま、3月12日、儀式がいよいよ始まった。儀式の最終日、午前11時半頃。江戸城・松の廊下。上野介は突如、背後から襲撃を受ける。襲ってきたのは、浅野内匠頭。ご法度である殿中での抜刀、しかも重大な儀式の最中、前代未聞の行為だった。上野介は背中と額に傷を負い、額の傷口は14cm、骨まで達する深手を受ける。だが、一体なぜ、自分が斬りつけられたのか?思い当たる節が、上野介には全く無かった…。

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転落のはじまり

寛永18年、吉良上野介は、室町幕府将軍の血を引く名家の嫡男として江戸に生まれた。吉良家は、幕府において、朝廷との連絡や儀式を取り仕切る「高家」の職を代々務め、上野介もまた、幼い頃から、厳しくその作法を仕込まれた。17歳で高家としてデビューして以来、誰もが羨む地位と財力を持つ、順風満帆の人生を歩む。あの事件が起こるまでは…。
齢60にして、突如巻き込まれた刃傷事件。この一大事に対し、内匠頭は遺恨があったと主張するだけで、動機は一切語らぬまま。城下の大名屋敷へ護送され、即日切腹を命じられた。上野介は、被害者とは言え、大事な儀式の場を血で汚してしまった自分は、もはや高家に相応しく無いとして、その役を辞職する決意をした。これにて、事態は収まるかに思われた。だが…思わぬ方向に、運命は進み出す。

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一触即発

松の廊下事件から3週間後。吉良邸をこっそり窺う者達がいた。堀部安兵衛ら、江戸詰の赤穂藩士。主君と碌を突然失った彼らは、納得できる理由を求めていた。その頃江戸でも、城内で起こった一大スキャンダルに、噂で持ちきりとなっていた。喧嘩両成敗のはずが、片落ちの裁定。これに、赤穂側への同情論が巻き起こり、次第に赤穂浪士が主君の怨みを晴らす、仇討ちの噂までが広がった。この悪評に上野介はとまどう。自分は被害者であるはずなのに…。
そこへ追い打ちをかけるような、通達が届く。それは、江戸城下・呉服橋にある現在の屋敷から、隅田川を越えた、本所へ転居せよとの幕府の命令だった…。

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討ち入り前夜

当初は仇討を警戒していた上野介。だが、あの刃傷事件からそろそろ2年が経とうとしている。もはや仇討は起こらないと判断した上野介は、年忘れの茶会を催すことにした。一方、主君を失った赤穂浪士には、仇討より重要な計画があった。それは、内匠頭の弟・浅野大学を新たな当主に据え、赤穂・浅野家を再興すること。だが、浅野大学は、広島の宗家へお預け、つまり江戸からの退去を命じられてしまう。お家再興の道を断たれた浪士達に、残された道は一つしかなかった。仇討の為、吉良邸付近に、浪士達が次々と移り住んで来た。吉良邸の出入り業者に扮した者達によって、茶会の情報も掴まれる。さらには、屋敷の見取り図までもが流出し、吉良邸のセキュリティは、もはや無に等しい。浪士達が討ち入りのシミュレーションを重ねる中、上野介は何一つ警戒する事無く、茶会の準備を進める…。

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討ち入り

元禄15年12月14日、午前4時半頃、上野介は目を覚ました。赤穂浪士47人による、表門と裏門からの、一勢襲撃。邸内にいる僅かな家来達は、着の身着のまま飛び出した所を、次々斬られていく。そして、物置に避難していた上野介は、ついに浪士達によって殺害されてしまう。死者16名、重軽傷者21名。対する赤穂側は、一人の被害者も出さずに済んだ。この一方的な襲撃に世間は喝采を送り、江戸城では浪士達の処分を巡って意見が交わされた。浪士達には武士としての面目が立つ、切腹の裁定が下される。
そのわずか12日後。「赤穂事件」は芝居となって上演され、大ヒットする。その後、浄瑠璃、歌舞伎にも次々と扱われ、事件から47年目、集大成として現代に続く演目「仮名手本忠臣蔵」が成立。忠義を果たす浪士達の敵役として、上野介も歴史にその名を刻むことになったのだ。

六平のひとり言

人生の終盤、ふんだりけったりになってしまった吉良上野介。
確かに、厳しい人だったとは思うけど、お家断絶になるほど、酷い人じゃないと思うよ!
ある意味、元禄太平の時代が、江戸の人々に「仇討待望論」までまきおこし、
赤穂浪士の後押しをし、幕府の裁定にまで影響を及ぼした。
吉良上野介は、パブリックパワーの一番の被害者なのかもしれない。