#33 2014年11月28日(金)放送 「男装の麗人」女スパイ 川島芳子

川島芳子

今回の列伝は清朝の王女として生まれながら、日本と中国を舞台にスパイとして暗躍した「川島芳子」。上海では社交界の華として活躍した芳子の裏の顔は関東軍の女スパイ。小説「男装の麗人」のモデルとなり、満州の広告塔として日本でもアイドル的存在になるも、戦後、「売国奴」とののしられ、中国で銃殺される。歴史に翻弄された悲劇の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト ジャーナリスト
相馬 勝

1936年、日中戦争を前にした上海。華麗なステップで男たちを魅了した女性がいました。軍服をまとった男装の麗人。次々と男を籠絡して、機密情報を聞き出していく・・・彼女の名は川島芳子。日本陸軍のスパイだった女性。清朝の王女として生まれながら日本と中国、二つの国に、運命を翻弄された女性です。死の直前に書いた詩歌、そこに込められた芳子の苦悩があった。最後まで己を信じ、貫いた悲劇の人生に迫ります。

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断髪

1907年、清朝の王族、粛親王善耆(ぜんき)の第十四王女、顕㺭(けんし)として芳子は生まれる。しかし、辛亥革命で中華民国が誕生。清朝は300年に渡る歴史に幕を閉じた。芳子は日本へ養女として出され、大切に育てられた。18歳になった芳子は、恋に落ちる。しかし、その恋は許されるものではなかった。なぜなら芳子には「滅亡した清朝を復興させる」という亡き父から託された使命があったからだ。普通の女としての生き方と決別するかのように、芳子は自慢の黒髪をばっさりと切り落とし、自分のことを“僕”と呼ぶようになった。

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秘密工作員

1930年(昭和5年)上海。当時、日本や西欧列強国は上海を租界地にして、中国進出の足がかりにしていた。23歳の川島芳子は社交界の華として脚光を浴びていた。その佇まいは、軍服に身を包んだ男の装い。清王朝の王女という立場とあいまって、スター的存在だった。しかし、その裏の顔は日本陸軍の女スパイ。1932年、日本は満州国を誕生させる。皇帝には、芳子の目論見通り一族である愛新覚羅溥儀が即位することとなった。満州国建設、清朝の再興・・・父から託された使命を果たした瞬間であった。

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軍国少女のアイドル

1933年(昭和8年)、一冊の小説が出版される。「男装の麗人」。著者は、当時の人気作家、村松梢風。そこには、清朝の王女・「麻里子」が男装の麗人と呼ばれ、中国大陸を舞台に、スパイとして活躍する姿が描かれていた。そのモデルとなった人物こそ川島芳子であった。「男装の麗人」は川島芳子の一大ブームを巻き起こす。満州から日本に凱旋帰国を果たした芳子はまるでアイドルのような存在となっていた。彼女が唱えたのは、満州国と日本の理想の関係。しかし、中国人の土地が強制的に取り上げられ、中国人が小作として働く。これが芳子の目に映った満州開拓団の現実だった。芳子は松本での講演会で日本の満州政策への憤りを叫んだ。

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暗殺指令

1937年(昭和12年)、日中戦争が開戦する。戦争が始まり、日本に対して批判的な発言を繰り返す芳子は、もはや邪魔な存在になっていた。「川島芳子を暗殺せよ」ついに芳子は日本陸軍から命を狙われる立場となっていた。命を狙ったのは日本だけではなかった。1938年、芳子は天津で暴漢に襲われ重傷を負った。犯人は中国人。中国にとっても芳子は、日本と手を結んだ、憎むべき売国奴であった。日本と中国、二つの国にとって邪魔者となった芳子。「こんなはずじゃなかった…」やがて芳子は、酒、そしてアヘンにおぼれていく。

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銃殺

1945年(昭和20年)、日本は終戦を迎える。多くの日本人が中国からの引き揚げ船に乗り込む中、川島芳子は北京にいた。アヘンの匂いが充満するその部屋で芳子は、孤独に耐えていた。日本に裏切られ、中国から売国奴とののしられる。彼女の心を癒すものは、もはや麻薬しか残っていなかった。終戦の年の秋、川島芳子は北京の自宅で逮捕された。中国国民に対する裏切り者“漢奸”の容疑であった。しかし川島芳子は無罪を主張した。自分は、中国のために身を粉にして尽くしたと。しかし、芳子の主張は認められなかった。裁判で決定的な証拠とされたのは、皮肉にも小説「男装の麗人」であった。死を前に芳子自ら書いた書がある。
「家あれど帰り得ず 涙あれど誰に向けて語らん」
二つの故国を失った悲しみと孤独。語る者もなく、信じてくれる人もいない。芳子は静かに死を迎えた。41年の波乱の人生の幕が閉じられた。