今回の列伝は井原西鶴。俳諧師であり、興行師であったマルチタレントの西鶴が書いた小説「好色一代男」は日本初のベストセラー小説になった。女、金・・大阪育ちの西鶴は徹底して人間のリアルな心情を描く。妻に先立たれ、男手一つで3人の子供を育てたあげた西鶴の波乱の人生に迫る。
今からおよそ330年前、上方文化が花開いた大坂で、一人の男が世間を驚かせた。
その男の名は井原西鶴。まだ小説というジャンルもない時代に、日本で初めてベストセラー小説を生み出した人物である。しかし実は伝記的資料は殆ど残っておらず、謎の人物… 今回の歴史列伝は、そんな謎めいたベストセラー作家、井原西鶴に迫る!
1642年、西鶴は大坂の裕福な商人の家に生まれたと考えられている。当時大坂は水運が発達し、米をはじめとする物資の一大集積地として江戸を凌ぐ繁栄をみせていた。しかし西鶴は商売には全く興味がなく、当時町人の間で流行していた「俳諧」(3〜4人のグループで短歌を詠む文芸)に入れあげ、俳諧の世界で名を上げてやると家業を放り出す熱の入れようだった。
しかし苦節17年、32歳になっても芽が出ない。「何とか名を上げないと、ここで終わってしまう…」そこで西鶴は起死回生を狙い、ある売名行為を思いつく。それは素人同然の俳諧師156人を集め、前代未聞の大規模な句会を開いたのだった。
派手な興行で俳諧師の間に名が知れ渡った西鶴だったが、ある不幸に見舞われる。最愛の妻が病にかかり25歳の若さで命を落としたのだ。9歳年下の幼馴染だったと言われる。絶望の淵にいた西鶴は、妻への募る思いを次々と句にしていく。気が付けば1日で1000句、追悼句を詠み上げていた。西鶴は妻の死で気が付く。自分には湧き出る言葉を操ることができると。そして新たなイベントを思いつく。当時上方で話題となっていた一昼夜で矢を射る数を競う「通し矢」を、俳諧でやってのけようという「矢数俳諧」だった。
1675年、西鶴は大坂の境内で聴衆が詰めかける中、24時間で1600句を詠んで町民の喝采をさらった。
町々には商売に失敗した人々の貧乏長屋が立ち並ぶ。そんな人々の生活を見つめ、ありのままの人間を描きたいと考えたのだ。そして刊行されたのが「世間胸算用」。大晦日という1日を舞台に20話で構成され、借金取りに追われる人々の悲喜こもごもを描いた。辛い現実の中におかれた人間は哀れさだ、しかし人間には必ず哀れだけでなく、おかしみも必ずある。それぞれの人生を一生懸命生き抜いていれば、苦しい中に笑いがある。西鶴は病の中筆を走らせながら、人生の最期にこんな境地に行き着いていた。それは…「哀れにも又おかし」。
西鶴は「世間胸算用」を書き終えた翌年、52歳で世を去った。
日本で初めて小説を書いたのが井原西鶴だったとは!
しかもその題材が、今の時代と照らし合わせても、斬新ですごすぎる。タイトルもかっこいい!
ヒットしないわけがない。
でも、実はシングルファザーとして、頑張っていたというのには、泣けました。
庶民の心をつかんだ裏には、西鶴自身の苦労や悲しみがあったからなんだろうなぁ。