今回の列伝は第15代将軍・徳川慶喜。「大政奉還」によって、260年続いた江戸幕府の幕引きをした男。「神君家康の再来」と呼ばれ、瀕死の江戸幕府を救うために現れた慶喜。一体、慶喜は稀代の英傑だったのか?それとも無能のリーダーか!?明治、大正まで生き抜いた激動の76年間。まさに波瀾万丈の人生に迫る。
激動の幕末。迫りくる欧米列強、さらに国内では次々と台頭する反幕府勢力・・・衰亡の一途を続ける江戸幕府に徳川慶喜が最後の将軍に就任。そして、わずか10か月後、260年続く江戸幕府、そして鎌倉幕府以来数百年続いた武家政治を終わらせ、大政奉還を決断。日本を内乱による植民地化から防ぎ、明治新時代の到来へと導いた。しかし、そこに至るまでの道のりには、孤独な苦悩が隠されていた。稀代の英傑か、それとも無能のリーダーか、その複雑な人生に迫ります。
水戸徳川家の七男として誕生した徳川慶喜。幼いころから、武芸に秀でる一方で優れた書を残すなど、その優秀さは際立ち注目を集めていた。さらに慶喜は水戸藩主である烈公・斉昭、そして有栖川宮家の登美宮という幕府と朝廷、双方の血を引く貴公子。能力・血統申し分ない慶喜に対し、父から常軌を逸した教育が行われる。
将軍を輩出する御三卿の1つ、一橋家の養子になると慶喜の人生は大きく動き出す。幕府内の改革派の大名たちから将軍として擁立されたのだ。しかし、保守派の大名たちは、紀州の慶福を擁立し、熾烈な跡目争いが起きてしまう。将軍や政治に全く興味がなかった慶喜だが、井伊直弼の条約調印に対し、とうとう生まれて初めての政治行動に出る。それは周囲の予想をはるかに超えるものだった。
ちょうどそのころ、開国か攘夷かをめぐり日本の政治は真っ二つに分かれていた。攘夷を主張する朝廷を説得するため慶喜は京都に上洛。双方の対立を解消しようと試みる。しかし、石清水八幡宮で過激な公家、そして長州藩士による罠が待っていた。攘夷も、朝廷との対立も切り抜ける慶喜の秘策とは?さらに、その後、薩摩藩・島津久光が台頭し、朝廷への影響力を高めていた。幕府の政権掌握に不安の影がよぎっていたのだ。慶喜がとった思いもよらぬ行動によって、幕府の危機が救われる。
禁門の変により、京都が火の海となり、とうとう慶喜は長州藩への厳罰を主張。ついに長州征討に踏み切ることになった。幕府軍およそ15万、長州藩およそ4000。勝負は見えていたが、思わぬ敗北を喫していく。さらに将軍・家茂の死が重なり、ここで慶喜は自ら精兵を率いて出陣すると表明。朝廷や幕臣たちは盛り返しを大いに期待する。しかし、わずか8日後、慶喜は突如、出陣中止。幕府の敗北は決定的なものとなる。困惑し、激怒する部下たちから、「変節者」と嘲られるようになってしまう。
慶応2年12月5日、慶喜は江戸幕府第15代将軍に就任。崩壊寸前の幕府に大改革を断行することを決める。フランスの軍事顧問団を招致し、フランス式近代軍備を整え、長州藩一藩にすら勝てない軍事力の強化を図る。一方、外交にも積極的に関わり、兵庫開港、さらに海外留学を奨励し、家臣の渋沢栄一をヨーロッパへと派遣。そして当時まだ珍しかった写真技術を使い、自らの姿を映した写真を諸外国の君主たちと交換し合うことで、日本のリーダーとして国際的な評価を得るまでに至る。
しかし、薩摩藩による武力討幕の計画がもちあがり、朝廷では岩倉具視が暗躍し、討幕の密勅が秘密裏に出されてしまう。さらに、腹心を暗殺され、フランスからの資金援助が頓挫することで近代軍備を整えることに失敗した慶喜は、孤独に冷静に状況を見つめ、ある途方もない一手をうつ。それが大政奉還であった。慶喜は後にこう語っている。「家康公は日本を治めるために幕府を開いた。私はその幕府を葬り去るために将軍職に就いた」
最後の将軍、賛否両論ある問題の人物だけど、今回、結構好きになりました。
難題に対峙した時の切り抜け方、その発想が面白い。
やっぱり「大政奉還」は、慶喜でなければできなかったウルトラCの大決断だよね。
明治維新の主役たちの中では、多分一番長生きして、
後半生は楽しみながら時代が変わっていくのを見つめていたと思う。