今回の列伝は「歩く百科事典」とよばれた奇人の天才博物学者「南方熊楠」。明治中期に科学誌「ネイチャー」に50を超える論文を発表、新種の粘菌を発見し、世界の学者を驚かせた。のちに日本の自然保護運動の草分けになり、生涯在野を貫いた信念の生涯を読み解く。
和歌山に生まれた南方熊楠は19歳で単身渡米。アメリカや中南米で様々な植物を採集し、新種を発見する。その後、ロンドンに渡った熊楠は大英博物館の図書館で、様々な知識を取り入れる。生物学、民族学、人類学・・・18ヶ国語を操り、ありとあらゆる分野を研究した。さらにあの科学誌ネイチャーには50を超える論文を発表。世界に名を残す。14年間の海外生活を終え、帰国した熊楠を待ち構えていたのは、近代化のもと紀伊山地の森が伐採される事態だった。熊楠は動植物の宝庫である紀伊山地を守るため、様々な手を尽くす。そして日本で初めてエコロジーという考えを提唱したのだった。現在、世界遺産に登録された紀伊山地。それを守った南方熊楠の壮絶な人生に迫る。
和歌山県で生まれた南方熊楠。「熊楠」という名前は、地元に生える樹齢1000年の楠と熊野の熊を合わせて付けられた。幼い頃から読書に没頭した熊楠は、8歳の時、105巻もある当時の百科事典を全て書き写し、覚えたという。父・弥兵衛は金物商や金貸し、酒造業などを営み、和歌山屈指の豪商。やがて神童と言われた熊楠は東京大学予備門に入る。だが知識豊富な熊楠、学校で教えてもらうことはほとんど知っていた。そのため熊楠は動植物の採集に夢中となりほとんど学校へいかなかった。すると・・・学校を落第。生まれて初めて挫折を味わい、熊楠は和歌山へ帰郷した。
1892年、25歳となった南方熊楠はロンドンにいた。ツテを頼りに大英博物館の図書館に出入りできるようになった熊楠は、本を借りては内容を書き写していった。そして生物学、民族学、人類学・・・18ヶ国語を操り、ありとあらゆる分野を研究した。さらにあの科学誌ネイチャーに、東洋の星座という論文を投稿すると見事掲載された。その後、これまでに身に付けた知識を活かし。50を超える論文をネイチャーに発表。特別寄稿者と認定された。
私生活では中国の革命家・孫文と交流を深め、充実した日々を送る。ところが父の死により、実家からの仕送りが途絶え、貧しい暮らしを余儀なくされる熊楠。浮世絵を売るアルバイトなどをして生計を立てるが苦しい生活は変わらず、そのストレスからか、大英博物館内で殴打事件を起こし出入り禁止となる。結果、熊楠は帰国を余儀なくされるのだった。
14年振りに日本に帰国した熊楠は歓迎されなかった。実家を継いだ弟・常楠は、散々仕送りをしたにもかかわらず、大学すら卒業していない熊楠をお寺に下宿させるほどだった。帰国を後悔する熊楠。そんな熊楠をむかえたのは、紀伊の大自然だった。熊楠は再び山に入り、様々な動植物を採取する。
中でも惹かれたのが粘菌(変形菌)と呼ばれる生物だった。ある時はアメーバ状になって動き回り、バクテリアなどを捕食する。しかし環境が悪くなると植物のような状態となり胞子を飛ばして子孫を増やす。形を変えることで永遠に生きられる摩訶不思議な生物。熊楠はこのように繰り返して生きる粘菌に、仏教の輪廻思想のようなものを感じた。そして生涯にわたり6000にも及ぶ標本を作り、粘菌研究の世界的権威となるのだった。
1929年、植物学者でもあった昭和天皇が熊楠を訪ねる。熊楠は昭和天皇に生物学の講義を行い、共に神島で粘菌を採取した。どこの大学にも属さず、市井の研究者であった熊楠にとって、最大の名誉だった。その後、神島は国の天然記念物に指定。そして2004年、熊野古道を始めとする紀伊山地一帯は世界遺産に登録されたのだった。
仰天の天才だね!18カ国語理解して、
ネイチャーに論文50も掲載された人が、明治の日本にいたなんて。
それにあの孫文が親友だっていうんだから、そのスケールの大きさに恐れ入るよ!
森羅万象、ありとあらゆることを極めようとした天才。
そして守ってくれた。
熊楠がいなかったら、世界遺産の熊野古道もないわけだから、
個人的には、自由にゲロをはけるっていう特技も気に入ってしまった。