今回の列伝はスペシャル版として、奥州一の都市仙台を作った伊達政宗の足跡を六平直政が辿ります。1601年、政宗は荒れた仙台の地に城下町を作り、豊かなまちづくりを目指した。しかし、その10年後に訪れた震災と津波。復興のために様々な対策に乗り出す政宗。そして、その町づくりには、ある野望があった…
宮城県・仙台。今回の主人公はこの地を築いた戦国武将・独眼竜と恐れられた伊達政宗。23歳で奥州の覇者に登り詰め、天下取りの野望を抱いて仙台にやってきた政宗は、人もまばらな荒地を東北随一の百万石都市へと作り変えていった。今回の歴史列伝は、番組MCの六平直政が政宗ゆかりの宮城県を巡り、その軌跡を辿った。そこから激動の道のりと政宗の壮大な夢が見えてきた!
1589年、米沢を拠点とした政宗は23歳で奥州の覇者へと登り詰める。ところが目指すは天下と意気込む政宗の前に立ちはだかったのは二人の権力者、秀吉と家康だった。当時秀吉は西日本を制圧し、天下統一に大手をかけていた。その秀吉は武将としての才覚を危険視し、その権力で政宗の領土の半分を没収、さらに東北の奥地・岩出山に飛ばしてしまう。そして1600年の「関ヶ原の戦い」で権力は家康の手に。
秀吉と家康の手によって勢力拡大を阻まれてしまった若き政宗・・・。そんな政宗が1601年に決断したのが本拠地の移転、選んだのは何故か当時広大な荒地の仙台!しかしそこには政宗の軍事的戦略があったという。仙台城は崖に造られた山城。三方を奥羽山脈に囲まれ、まさに巨大な天然の要塞だったのだ。さらに城の内部には、「上々段の間」と呼ばれる天皇を迎える部屋まで作ったという。天皇を呼ぶということは天下人という権力者の証。政宗は関ヶ原の戦い後も、天下取りの野望を秘めていたのだ。
そして政宗は天下人にふさわしい都を作るべく、仙台の城下町整備に着手していく。実は「仙台」という地名も政宗が来た時、千代(せんだい)から改名したもの。仙人の住む世界の様に天下の理想郷を目指し、「仙人の住む高台」と名付けたのだった。政宗は交通の基点を作り河川を整備し物流を盛んにし、仙台は経済的発展を遂げていく。
ところが、国づくりをはじめて10年、1611年に慶長地震津波が発生。仙台領も多くの死者を出し、田畑は一夜で壊滅する。そこで政宗はまず津波の被害を受けた水田の回復に取りかかる。当時最も商品価値の高い産物は米。他国に売る米を作り経済を回復させる意図でした。開墾を希望する者には一定期間非課税にする策がとられ、政宗は民のモチベーションも常に考えていたという。しかし津波の被害を受けた水田の回復には何十年もかかってしまう。そこで政宗が起死回生を狙ってある巨大プロジェクトに乗り出すのである!
政宗が復興の後押しとして実行に移そうとしたのが、兼ねてより構想していたスペインとの貿易だった。当時ヨーロッパ最大の国スペインとの貿易は巨大な富をもたらすことができると考えた政宗は、太平洋に着目し、自ら海を渡り、スペイン植民地のメキシコを介して仙台領と直接貿易する手段を考えたのだ。震災の2年後、1613年、支倉常長を大使とした慶長遣欧使節団をスペインへ送り、貿易交渉を託す。その間政宗はスペインの大きな船を迎え入れることのできる国際港を石巻に造って準備していた。しかし交渉は難航する。実は政宗は貿易と引き換えに領内での布教容認を提示、それを外交カードとしていた。しかし幕府によってキリシタン迫害が強まる日本の状況がスペインへ報告されていた。1620年、交渉は挫折し、使節団は帰国することになる・・・
政宗が天下を目指し仙台に居城を移して20年、震災復興に奔走する中で、世の中は大きく変わっていた。1615年の大阪夏の陣で徳川家の天下が確実なものとなり、政宗の野望は潰えた。しかしその時残ったものが、自らが心を砕き築いた仙台の地と民だった。1620年、貿易交渉が挫折した年、政宗は自らの夢をある障壁画に託す。それが国宝・瑞巌寺の「文王呂尚図」と言われる周の都を描いた作品だった。800年繁栄を遂げた都と言われ、政宗もこの都にあやかり、自らの死後、仙台が日本随一の都となることを願って描かせたものだと考えらている。
事実、政宗が仙台にやってきておよそ100年、政宗は実高100万石という東北随一の都に成長していく。それは震災後新田開発した土地から大量の米を収穫し、そしてスペインとの貿易を夢見てつくった石巻の港から江戸に送られ、江戸の米の3分の1を仙台藩が供給するまでに至ったからだった。政宗の夢はこの時結実する。そして日本随一の都を目指す政宗の想いは死後も受け継がれ、400年経った今も、仙台は東北随一の都市として発展し続けている。