#19 2014年8月22日(金)放送 日本体育の父 嘉納治五郎

嘉納治五郎

今回の列伝は「嘉納治五郎」。講道館柔道の生みの親にして、教育者として当時まだ体育という概念がなかった日本に、体育教育の重要性を根付かせた“日本体育の父”。日本のオリンピック参加にも奔走、1912年、アジアで初めてストックホルム大会に参加を実現させた。日本スポーツ界の土台を作り上げた異色の教育者の波乱の生涯に迫る。

ゲスト

ゲスト 歴史家・作家
加来耕三
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(写真提供:講道館)

日本体育の父 嘉納治五郎

2000年9月。ロシアのプーチン大統領が、東京都文京区にある講道館を訪ねた。一国の大統領をも虜にするほど、今や世界的な競技となった日本の柔道。その生みの親こそが、柔道の祖「嘉納治五郎」。肉体の鍛錬こそが、豊かな心と知識を生み出すという信念のもと、「柔道」を創りあげ、さらには“国民の体育教育”を大きく躍進させる。身体と心のバランスが、人間を革新させると考える程、治五郎は進歩主義の男だった。柔道から、体育教育にまで一貫する、治五郎が残したかったモノとは?孤高の武道家の姿に迫る。

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拳骨

1860(万延元年)年。西洋文明の大波に、摂津国御影村(現在の神戸市灘区)で、裕福な家庭に嘉納治五郎は生まれる。時代は文明開化。日本の将来を支えるリーダーとなるべく、幼少期より英才教育を施され、11歳で上京。学業では優秀な結果を残すが、それ故に妬まれ、治五郎はイジメにあう。「頭脳だけの軟弱なヤツなど評価しない」という、理不尽な暴力の世界に直面した秀才は、打開策を見つけ出す。それが古来から伝わる武術、柔術だった。
元来の負けず嫌いの性格から、親の反対も押し切って鍛錬に勤しむ毎日。その中で治五郎は、「武術の思わぬ効用」に気づく。それは自分自身の精神状態を落ち着かせ、バランスをもたらす力。東大の学生でありながら、荒っぽい武術の世界に魅せられた治五郎は、武術の探究に益々傾倒していく。

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柔道を創始する

1882(明治15)年、東京大学文学部に籍をおく治五郎は、22歳の若さながら、学習院で政治経済の授業を行う教師になった。秀才達に教える中で、彼らにも柔術を学ばせたいという思いが湧く。だが、いざ教えようとすると、そこには大きな問題があった。柔術は本来殺法であり、戦場で相手より優位に立つための技術。そのため、簡単に技術や原理を教えることができない、秘匿性があった。だが、これからの時代、誰もが取り組める“開かれた武術”があってもいいはずだ。治五郎は古流柔術や拳法の技、果ては海外のレスリングまで一つ一つ研究し、理屈で解き明かせるものを吸収していく。こうして治五郎は、皆が教え合い、学べる、オリジナルの柔術を作り出した。それは共に高め合っていく一つの「道」。これを、「柔道」と名付けた。

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最強武術の証明

1882(明治15)年5月、嘉納治五郎は自らの給料をつぎ込み、東京・上野にある永昌寺の一角を間借りして、柔道の道場を開く。道を教えていくという意味をこめ、名は「講道館」とした。理論的で分かりやすい柔道は、少しずつ人気を呼んでいった。だが、学士が始めた柔道に対し、「畳水練」などと批判を浴びせる者もいた。そんな批判を退ける、絶好の機会がやってくる。1885(明治18)年、警視庁は警察官の武術指導の師範を決める為、武術大会を開催した。自らの柔道理論を実証する重要な試金石。治五郎は、徹底的に鍛え上げた門弟たちを送り込む。その中には、のちに“姿三四郎”のモデルとなる天才柔道家、西郷四郎の姿もあった。大会では、当時最強と言われた古流柔術の名門、戸塚派楊心流に9勝1分けで圧勝。治五郎の柔道は、さらに天下へ知れ渡っていく。

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(写真提供:講道館)

教育改革

1886(明治19)年。嘉納治五郎は27歳の若さで学習院の教頭となっていた。その3年後、ヨーロッパの教育事情・視察の命が下る。海外の教育事情を目の当たりにし、治五郎は驚いた。ヨーロッパでは、陸上競技や水泳などのスポーツを積極的に取り入れた、体育教育が行われていた。一方、富国強兵路線を突き進む日本では、「体育」とは、兵士を育成する手段としてしか認識されておらず、スポーツなど、単なる遊戯としかとらえなかった。日本が近代化し、欧米と伍していくためには国民教育、特に「体育教育」が重要と考えた治五郎は、帰国後、東京高等師範学校の校長に就任するやいなや、兵式体操にとって代わるべく、スポーツ競技を導入し学ばせるという、体育教育の改革に挑む。その後も、熊本第五高等中学、第一高等中学などの校長を務め、各地で体育の普及に努めるが、明治37年には日露戦争が勃発。その方針は益々、軍隊式教育へ傾倒。治五郎の理想の前に、大きな壁が立ちはだかる。

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(写真提供:講道館)

日本体育の父

1909(明治42)年、近代オリンピックの創始者、フランスのクーベルタン男爵から一通の手紙が届く。柔道の創始者であり、学校の校長も務める教育者としての腕が買われ、国際オリンピック委員に就任するよう、要請されたのだ。日本が参加を果たせば、国内に体育の意義を一気に広めるチャンスになる。治五郎は要請を受け、3年後に開催されるストックホルム大会出場を目指す。だが、オリンピックを知る者もいなければ組織もない時代に協力を得るのは困難を極めた。文部省からの協力も得られぬ中、治五郎は各地の大学で体育の意義を説いて回り、民間スポーツ支援組織、大日本体育協会を設立。その初代会長に就任した。そして、1912(大正元)年、5月5日。第5回オリンピック競技会、ストックホルム大会の開会式。治五郎は自ら団長を務め、わずか2名の選手と共に行進していた。それは、治五郎の努力によって、日本が初めてオリンピックに参加を果たした、記念すべき日となった。

六平のひとり言

ただ、「柔道の祖」だと思っていたら、ものすごい人だった。
エリート中のエリートでありながら、
体育を学校に取り入れることが重要と
いち早く気づくなんてね。
この人がいなかったら、日本は永遠に
オリンピックにも参加してなかったかもしれないんだから。
文武両道って、本当に、嘉納治五郎のためにある言葉だね。