#17「第1部」 21:00〜21:54放送
今回の列伝は連合艦隊司令長官「山本五十六」。日米開戦に反対し、そして真珠湾攻撃で戦争への引き金をひいた男の波乱の生涯に迫る。第一部は賊軍の旧長岡藩出身でやせ我慢をモットーとした五十六が海軍兵学校し、アメリカの国情を知り、アメリカとの戦争に反対し続け、連合艦隊司令長官になるまで。
#18「第2部」 22:00〜22:54放送
第2部はいよいよ連合艦隊司令長官になった五十六。もはや戦争へと突き進む時代の流れは止められない。ついに巨大なアメリカ相手に戦争への指揮を取る。壮絶な最期までの苦悩に満ちた後半生とは…
昭和16年12月8日未明。日本海軍は、ハワイ真珠湾基地を奇襲した。航空隊により、敵艦隊を魚雷攻撃する前代未聞の作戦は、圧倒的な国力を持つアメリカ軍に大打撃を与えた。太平洋戦争の火蓋をきったこの真珠湾作戦を指揮した人物が、連合艦隊司令長官・山本五十六。
しかし実は山本はアメリカとの戦いに反対をしていた。戦争を避けようとした男が、なぜ戦争の指揮をとったのか。組織の中で苦渋の選択を迫られた山本五十六の生涯とは?
明治17年、山本五十六は新潟県長岡に生まれる。長岡武士は元来〝負けず嫌い″と言われ、戊辰戦争でも圧倒的な力を持つ新政府軍に挑み敗れた歴史を持つ。そんな長岡武士の血を継いだ五十六も、やはり負けず嫌いの少年だった。食いしん坊であることをからかわれ、「いくらなんでも鉛筆は食べられないだろう」と言われると、悔しくて鉛筆にかじりついてしまうほど。
中学を卒業すると、五十六は没落した一家を再興するため海軍に入る。20歳の時に日露戦争に従軍。そのとき彼の一生を左右する事件が起こる。乗っていた戦艦の大砲が暴発し、大怪我を負ってしまったのだ。医師からは「左手を切断しなければ命が危ない」と言われる。しかし五十六は切断を拒否した。腕を切れば軍人でいられなくなるからだ。その後、左腕は奇跡的に回復し助かったが、命がかかったときにも五十六は長岡武士の意地をつらぬいたのだ。
海軍のエリート幹部の道を歩み始めた五十六は35歳のとき、アメリカ留学を命じられる。将来、対外交渉に必要な英語を学ぶとともに、仮想敵国であるアメリカの国情を視察するためだ。当時、日本海軍は日露戦争で勝利、第一次世界大戦でも活躍し、大国アメリカといえど「恐るるに足らず」という風潮が広まっていた。しかし五十六は自分の目でアメリカを見て回り、正確に国情を比較した。そして圧倒的な規模の油田、自動車工場、飛行機工場に驚いた。「アメリカとは決して戦争すべきではない」。五十六の出した答えだった。
戦争が決定的になっていく中で、五十六は連合艦隊司令長官に任命される。戦争反対を訴えていた五十六が、皮肉なことに戦争の最高指揮官となってしまったのだ。五十六は当時、友人への手紙にこんなことを書いている。「個人としての意見と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。」しかし、戦争が決まった以上、全力を尽くす。それが長岡武士の意地だった。そして立てたのが真珠湾作戦。当時、アメリカは太平洋戦争に向け、主力艦隊をハワイ真珠湾に集結させていた。もしその艦隊を一網打尽にできれば、「戦争を早期に終結させ、有利な条件で講和に持ち込めるかも知れない」と考えたのだ。
昭和16年12月8日。五十六は日本が持つ6隻すべての空母、開発されたばかりの零戦を中心とした350機の航空機を真珠湾に集結させ、基地を奇襲した。戦艦5隻を沈没させ、航空機188機を破壊する大戦果をあげたのだ。しかしアメリカの反応は、予想外のものだった。日本からの宣戦布告文書が、事務的なミスにより遅れたこともあり、アメリカ国民は真珠湾攻撃を「だまし討ち」とみなした。そして参戦を表明。太平洋戦争の火蓋は切られてしまったのだ。
そんな中、山本五十六は1943年4月18日、最前線のブーゲンビル島を視察に向かう途中で、待ち伏せにあい、撃墜される。そして59歳でこの世を去る。「もうこの戦争はやめなくてはいけない」。五十六の命をかけた抵抗だったのかもしれない。
せつない人生だなぁ。
心の奥で、「この戦争は負ける」と思っていながら、
職業軍人としては、最前線で闘わなければならなかった。
苦しみもがきながら、モーレツに一生懸命生きた男。
一流のファイターであった山本五十六が、人生かけて挑んで、
それでも結果として敗戦となったのだから、
やっぱりどしても勝つことはありえなかった。
それを忘れちゃいけないと思う。