今回の列伝は歌人・柳原白蓮。伯爵家令嬢として育ち、大正の3大美人と称された美貌を誇り、自由奔放に生きた白蓮。25歳上の九州の炭鉱王と愛のない政略結婚の末、7歳下のインテリ青年との不倫。突如、新聞紙上で夫への公開絶縁状を発表し、世間を驚愕させた波乱の人生。その生き様に迫ります。
1921年(大正10年)10月22日、大阪朝日新聞の夕刊に一つのスクープ記事が掲載されました。それは、柳原白蓮による、夫 伊藤伝右衛門に対する公開絶縁状でした。前代未聞の事件。愛情のない結婚生活の虚しさと惨めさ、そして新しい愛を得て復活の道を進もうとする決意が綴られていました。「私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の袂別(わかれ)を告げます…」因習に縛られた一人の女性が社会に向けて放った、鮮やかな独立宣言でした。“恋に生き、愛に生き・・・”真実の愛を求め続け、常に自分に正直に生きた柳原白蓮の生涯に迫ります!
1900年(明治33年)、ある子爵家の邸で華燭の典が挙げられた。新郎は、北小路子爵家の跡取り息子、資武(すけたけ)22才。新婦は柳原伯爵家の令嬢、燁子(あきこ)15歳。後の白蓮である。しかし、白蓮にとってこの結婚は、望んだものではなかった。1885年(明治18年)、天皇家につながる由緒正しい華族の家に、白蓮は生まれた。柳原家は、娘に同じ華族である家に嫁がせようと、許嫁を取り決めた。それが、北小路資武だった。しかし資武は粗暴で、白蓮はことある事に暴力をふるわれ、時には鼻血が出るほど打ち据えられる事もあった。そんなある日、資武から「妾(めかけ)の子のくせに」と暴言を吐かれ、白蓮は大きなショックを受ける。自分の出生を初めて知り、白蓮は身だけでなく心も打ちのめされた白蓮。五年後。白蓮、離婚。実家に舞い戻り、幽閉生活を送る。
1910年(明治43年)、離婚から5年が経過し25歳となっていた白蓮に、再び縁談が舞い込む。今度の相手は「九州の炭鉱王」伊藤伝右衛門50歳。二度目の結婚も、家同士の取り決めだった。伊藤家は「家柄」を、柳原家は「金」を欲した。親子ほども年が離れ、さらには身分も全く違う相手との結婚に、白蓮は不安を覚えた。だが、幽閉生活を送るよりは良いだろうと縁談を承知し、実家の東京から遠く離れた福岡県・飯塚市に嫁入りをした。
嫁ぐやいなや、白蓮は少しでも伊藤家の役に立とうと様々な改革を行った。朝食をごはんからパンへ。トイレを水洗式に。方言の矯正。…だが、伝右衛門は見向きもしてくれない。その辛さを、白蓮は「和歌」にぶつけていくようになる。白蓮は、自分の存在を認められたいと、短歌を専門誌への投稿を続けた。彼女のストレートな思いを綴った歌は次第に注目を浴びるようになっていく。この活躍が、新たな運命をたぐり寄せることになるのである。
そして事件から4年。白蓮は華族の身分を除籍され、晴れて龍介との婚姻届を提出。正式に結婚し、2人の子供にも恵まれた。40歳の時のことだった。50歳の時、歌誌「ことたま」を創刊。その中には、かつての悲痛な歌は無く、生きている喜びに満ちた歌を詠いあげていた。恋に生き、愛に人生を捧げた柳原白蓮。白蓮はその愛のために、世間をおそれず命がけで闘い、ようやく、生きることそのものの喜びを掴んだのだ。
一言で言えば “名女優!”
美しく薄幸は伯爵令嬢の波乱の人生の物語を、
ドラマチックに演じきった、希有な女優。
自分の人生の物語を見事に創作し演出して演じた。
普通の女性はこんな人生を歩めないもの。