#15 2014年7月25日(金)放送 「民のための政治」米沢藩主 上杉鷹山

上杉鷹山

今回の列伝は第9代米沢藩主「上杉鷹山」。名門上杉家に養子入りし、わずか17歳にして藩主となった鷹山。財政破たん寸前であった米沢藩の改革に乗り出した。重商主義経済へ転換、米沢織を開発し、50年以上かけて30万両の借金を完済した。常に民のために政治を行った鷹山の極意に迫る。

ゲスト

ゲスト 歴史学者
大石 学
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江戸時代 中期、米沢藩は破綻寸前にあった。15万石にまで減った石高にあって、積り積もった借金は16万両(およそ160億円)。そんななか9代藩主として迎えられたのが、わずか17歳の上杉鷹山だった。鷹山は、生涯をかけて米沢を立て直していくこととなる— 「経営のカリスマ」と謳われる革命的リーダーの、壮絶な生き様に迫る!

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(資料提供:小貫幸太郎)

名門、上杉家への養子入り

九州の小藩・高鍋藩を治める家の次男として生まれた鷹山。幼い頃より聡明と評判で、上杉家の跡継ぎと見込まれ9歳で養子入りする。戦国の雄・上杉謙信を祖とする上杉家が代々治めていた、米沢藩。豊臣秀吉政権では120万石を誇ったが、関ヶ原の戦いで破れ、さらに相続問題の不手際もあって石高は15万石にまで減っていた。だが上杉家は名門の誇りを捨てられず、家臣の数は謙信以来の5000人を保ち、贅沢な暮らしも改めなかった。借金は膨らむばかりで、16万両(およそ160億円)にまで膨らんでいた。困り果てた8代藩主・上杉重定は幕府に領地返上することを検討する始末。わずか17歳で9代藩主となった鷹山に、破綻寸前の藩の命運が託された。

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(所蔵:市立米沢図書館)

武士も耕せ!

藩主に就任した鷹山は、すぐさま大改革を始める。「食事は一汁一菜」「衣服は絹織物を止め木綿のみとする」。自ら異例の倹約に励み、米沢の民へも「大倹約令」を書き送った。2年後。初めて米沢の地を踏んだ鷹山は、驚きの光景を目にすることになる。倹約令は守られていなかったのだ。重臣たちは、鷹山が若く、また3万石の小藩から来た養子であることを侮っていた。孤立無援の状態に陥った鷹山が選んだのは、さらなる改革だった。

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藩主自ら鍬(くわ)を振るって土を耕し、豊作を願う儀式「籍田の礼」を行う。それは上杉家始まって以来の異例の行動。兵農分離が秩序の江戸時代にあって、武士も農業に就かせるという前代未聞の農業改革への決意表明だった。その後鷹山は下級武士たちを新田開墾に動員。家屋と土地を提供する優遇措置を取り、結果のべ1万3千人もの武士たちが開墾事業に従事した。

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(所蔵:米沢市上杉博物館)

突然のクーデター「七家騒動」

改革は進みつつある。そう思っていた矢先、事件が起きた。突如、米沢城の鷹山の元へ家臣たちが駆け込む。突き出されたのは、改革を完全に否定する訴状だった。「一汁一菜や木綿の衣服などというのは小事に過ぎない」「武士に農業をさせるとは、鹿を馬とするような馬鹿げた行いだー」。訴状に署名したのは、代々上杉家に仕えてきた名家の7人。性急すぎる改革が保守派の激しい反発を招いていたのだ。改革の中止を認めるまで、部屋から出せないと凄む重臣たち。

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4時間以上も続いた押し問答の末、騒ぎを聞きつけた家来が助けに入り、鷹山はなんとか脱出した。
鷹山が下した処分は、7人のうち5人を隠居・閉門、2人は切腹。裏で手を引いていた儒学者・藁科立沢(わらしな・りゅうたく)は斬首という、厳しいものだった。23歳の鷹山は、改革を進めるため断固たる意志で抵抗勢力を一掃した。

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(所蔵:市立米沢図書館)

一攫千金の大事業

鷹山が挑んだ次なる策は、「100万本植樹計画」。漆、桑、楮(こうぞ)の木をそれぞれ100万本ずつ新たに植え、漆の実からロウソクを、桑の葉で蚕を育てて絹糸を、楮の皮から和紙をつくるという大事業だった。始めはうまく滑り出したものの、思わぬ事態が訪れた。西日本から、櫨(はぜ)ロウが現れる。櫨の実でつくられたロウソクで、漆のロウソクよりもよく火が点き、しかも安価だった。米沢のロウソクはあっという間に市場で駆逐される。100万本計画は失敗に終わり、多額の借金が残った。
さらに、天変地異が追い打ちをかけた。天明3年、浅間山が噴火し、「天明の大飢饉」が訪れる。米沢の被害額は藩収入の3倍を超える11万両に上り、大勢の餓死者も出てしまう。復興に向かっていた農村は再び荒れ果て、16年の改革の成果はすべて水泡に帰した。2年後、全ての責任を負って藩主引退。先代・重定の実子・治広(はるひろ)に家督を譲り、35歳で隠居した。

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(所蔵:米沢市上杉博物館)

ふたたびの改革、そして借金完済

鷹山の隠居から5年。藩の借金は減るどころか、鷹山就任時の倍、30万両に膨れ上がっていた。復帰を願う声にこたえるように、鷹山は政治の舞台に戻ることを決意する。まず行ったのは、すべての家臣を城に集め、藩の借金を公開して危機意識を共有することだった。そして城の門前に「上書箱」を設け、町民、農民、すべての者からの意見を受け付けると宣言した。強攻策に出た1次改革の失敗を踏まえ、米沢中の力を合わせて再建する道を選んだのだ。集まった無数の意見を元に、力を注ぐことを決めたのは絹織物だった。米沢の寒冷な風土に合った産業の中でもっとも市場が大きかったのは、絹糸を生む養蚕業。しかし、糸を売っているだけでは収益に限りがある。そこで、米沢で織物まで仕上げることを目指したのだ。

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織り手として見込んだのは、武家の女性たちだった。織機を武家に設け、織物産地から優れた職人を招いて学ばせる。出来上がった織物は一括して藩が買い上げる奨励策を取った。やがて、女性たちは寸暇を惜しんで織物に励むようになった。米沢中に機織りの音が溢れ、琴や三味線の音がする家は怠け者、と言われるようになる。いわば、米沢の街全体が織物工場となったのだ。

鷹山の藩主就任から56年が経った、文政6年。最大30万両もあった借金は、完済された。全ての領民が力を合わせて生んだ米沢織が、藩を救ったのだ。それは、鷹山逝去の翌年のことだった。鷹山は生涯をかけ、米沢を豊かな国へと変えてみせた。

六平のひとり言

今、鷹山公がいたらなぁとほんとに思う。
30万両の借金返済もすごいけど、介護休暇や、育児手当まであったなんて、
ほんとに江戸時代の人なの?
今こそ欲しい政治家だよ。それに、イメージ戦略に長けてる。
自分が率先することで、領民、家臣、みんなの意識改革。
オール米沢の意識を作ったからこそ、成し遂げられたことだね。