今回の列伝は第9代米沢藩主「上杉鷹山」。名門上杉家に養子入りし、わずか17歳にして藩主となった鷹山。財政破たん寸前であった米沢藩の改革に乗り出した。重商主義経済へ転換、米沢織を開発し、50年以上かけて30万両の借金を完済した。常に民のために政治を行った鷹山の極意に迫る。
江戸時代 中期、米沢藩は破綻寸前にあった。15万石にまで減った石高にあって、積り積もった借金は16万両(およそ160億円)。そんななか9代藩主として迎えられたのが、わずか17歳の上杉鷹山だった。鷹山は、生涯をかけて米沢を立て直していくこととなる— 「経営のカリスマ」と謳われる革命的リーダーの、壮絶な生き様に迫る!
九州の小藩・高鍋藩を治める家の次男として生まれた鷹山。幼い頃より聡明と評判で、上杉家の跡継ぎと見込まれ9歳で養子入りする。戦国の雄・上杉謙信を祖とする上杉家が代々治めていた、米沢藩。豊臣秀吉政権では120万石を誇ったが、関ヶ原の戦いで破れ、さらに相続問題の不手際もあって石高は15万石にまで減っていた。だが上杉家は名門の誇りを捨てられず、家臣の数は謙信以来の5000人を保ち、贅沢な暮らしも改めなかった。借金は膨らむばかりで、16万両(およそ160億円)にまで膨らんでいた。困り果てた8代藩主・上杉重定は幕府に領地返上することを検討する始末。わずか17歳で9代藩主となった鷹山に、破綻寸前の藩の命運が託された。
藩主に就任した鷹山は、すぐさま大改革を始める。「食事は一汁一菜」「衣服は絹織物を止め木綿のみとする」。自ら異例の倹約に励み、米沢の民へも「大倹約令」を書き送った。2年後。初めて米沢の地を踏んだ鷹山は、驚きの光景を目にすることになる。倹約令は守られていなかったのだ。重臣たちは、鷹山が若く、また3万石の小藩から来た養子であることを侮っていた。孤立無援の状態に陥った鷹山が選んだのは、さらなる改革だった。
藩主自ら鍬(くわ)を振るって土を耕し、豊作を願う儀式「籍田の礼」を行う。それは上杉家始まって以来の異例の行動。兵農分離が秩序の江戸時代にあって、武士も農業に就かせるという前代未聞の農業改革への決意表明だった。その後鷹山は下級武士たちを新田開墾に動員。家屋と土地を提供する優遇措置を取り、結果のべ1万3千人もの武士たちが開墾事業に従事した。
4時間以上も続いた押し問答の末、騒ぎを聞きつけた家来が助けに入り、鷹山はなんとか脱出した。
鷹山が下した処分は、7人のうち5人を隠居・閉門、2人は切腹。裏で手を引いていた儒学者・藁科立沢(わらしな・りゅうたく)は斬首という、厳しいものだった。23歳の鷹山は、改革を進めるため断固たる意志で抵抗勢力を一掃した。
今、鷹山公がいたらなぁとほんとに思う。
30万両の借金返済もすごいけど、介護休暇や、育児手当まであったなんて、
ほんとに江戸時代の人なの?
今こそ欲しい政治家だよ。それに、イメージ戦略に長けてる。
自分が率先することで、領民、家臣、みんなの意識改革。
オール米沢の意識を作ったからこそ、成し遂げられたことだね。