今回の列伝は日本女子教育のパイオニア「津田梅子」。明治4年、岩倉使節団に同行し、近代的な教育制度学ぶべくアメリカに留学した梅子は、その時わずか6歳。しかし12年後、17歳で帰国した彼女が見た祖国日本は、居心地の悪い異国であった。良妻賢母から自立した女性の育成へ・・・日本初の女子高等教育機関「女子英学塾」(現津田塾大学)を創設した、元祖帰国子女の苦闘の人生に迫る。
東京都・小平。ここに日本初の女子高等教育機関、津田塾大学があります。創設したのは、津田梅子。日本が西洋化を推し進めた明治初頭に、日本女性として初めての留学生として渡米し、その後の人生全てを女子教育に捧げた人物です。しかし、それは、途方もない苦難と孤独との戦いでした。今回は、女子教育の礎を築いた、津田梅子。彼女の知られざる人生に迫っていきます!
元治(げんじ)元年、幕臣の次女として津田梅子は誕生します。大きな転機が訪れたのは梅子6歳の時。近代化を目指し始めた明治新政府は、西洋文化を学ぶために留学生派遣を募ります。その中に「優れた男子を育てるため、賢い母を大量に排出しなければいけない」と、女性が家庭内で大きな影響力を得るようになったアメリカへ、賢母養成のため女性も募集したのです。応募したのは梅子の父・仙。明治維新により幕臣として負け組となった津田家はこの留学に家の復興を賭けたのです。こうして決まったのは5人の女子留学生、すべて旧幕府側の子女で、その中には「鹿鳴館の花」と言われる後の大山捨松の姿もありました。
明治4年、梅子らは岩倉使節団に随行して、日本を発ちます。アメリカに着いて間もなく、女子留学生たちは、ホームステイ先に送られます。梅子を受け入れたのは、日本大使館に勤めるランマン夫妻でした。子供のいなかった二人はまるで我が子のように梅子をいとおしむようになります。梅子も、官費留学生として国の代表という自負と重責を感じながら勉強に励み、優秀な成績で女学校を卒業します。17歳の梅子は、天文学からラテン語、フランス語、算術、博物学まで最先端の教養を身に着けたレディーとなったのです。
帰国して8年後、学校設立に専念するため梅子はついに退職を決意します。当時女性が経済的に自立する唯一の方法が教員になること。そこで梅子は日本で初めての女子英語教員養成学校の設立を心に誓うのです。しかし当時の日本は、良妻賢母を育成する学校が主流で、梅子の行動に支援を申し出る日本人は殆どいませんでした。そんな梅子に声をかけたのが、当時、陸軍元帥の妻となっていた捨松でした。陸軍元帥の妻の名は、新設学校にとって何よりの信用になるとし、顧問となったのです。そしてアリスも来日し、無報酬で教師を務めながら、他の学校で教鞭をとった報酬を校舎の家賃に充てると、支援を買って出たのです。こうして明治33年9月、10名の生徒が集まり、日本初の私立女子高等教育機関「女子英学塾」が誕生しました。開校から3年後には、初めての卒業生を送り出し、その後も多くの卒業生が教員として採用され、全国各地に赴いていきました。春、どの花よりも早く満開となる梅のように、津田梅子は時代に先駆けて女子教育という花を咲かせたのです。
6歳でアメリカにわたって、梅ちゃん、一生懸命だったんだろうなぁ。
だから日本語も忘れちゃって、戻ってきたとき、
お父さんお母さんも相当驚いたし、さびしかったかもしれない。
立派な厳しい教育者になったけど、あの毅然とした姿の裏に、
僕は、どうしてもかわいい、けなげな梅ちゃんを見てしまいます。