一人に歴史あり。傑作を創りだした偉人たちの人間ドラマ。
今回の列伝は、女性アスリートの魁・人見絹枝。
1926年、北欧スウェーデンで、「参加者が全て女性」という、国際競技会が開催されようとしていた。女性の競技参加に理解を示さない近代オリンピックに対抗し、各国の女性アスリートが結集、第2回万国女子オリンピックが行われたのである。この国際大会に、日本人としてただ一人出場した女性アスリートがいた。人見絹枝。当時19歳。遠くアジアからやってきたこの無名の少女は、欧米選手相手に次々と驚異的な記録を打ち立ててゆく。“スポーツ”という言葉もまだなかった時代。日本女子陸上界の発展に大きな功績を残し、女子アスリートの魁となりながら、わずか24年でその生涯を懸命に走り続けた人見絹枝の人生に迫る。
1907(明治40)年、岡山県の農家の次女として生まれた人見絹枝。幼い頃から明るく活発だった絹枝は、近所でも評判のおてんば娘だった。「これからは女子も教育が大切」と考え、高等女学校に進学させた両親の思いをよそに、絹枝はテニスに熱中した。エースとして活躍していた折、絹枝の運動神経に目をつけたテニス部の顧問が、学校対抗の陸上競技会に出場するよう打診。陸上の経験など無かったが、学校の名誉の為にと、絹枝は走り幅跳びに出場した。・・・その結果、なんと絹枝は、初めての競技にも関わらず、優勝。しかも当時の日本記録を塗り替える大記録を打ち立てていた。
1924(大正13)年、女学校を卒業した絹枝は、周囲の勧めで創立間もない二階堂体操塾に進学。厳しい訓練の中で才能に磨きをかけ、次々と記録を打ち立てていく。 卒業後は、大阪毎日新聞社に記者として就職。当時、販路拡大を目指す新聞社は、庶民に急速に普及しつつあったスポーツに目をつけ、女子陸上界で圧倒的な存在感を放つ絹枝を、“走る広告塔”としてスカウトしたのだった。新聞記者とアスリートという、二足のわらじの生活を懸命に送る絹枝。数か月後、思いもよらぬ使命が舞い込む。その年行われる、万国女子オリンピックに絹枝を出場させることが決まったのだ。ノウハウも経験も無い不安から、絹枝は辞退を申し出るが、周囲の期待に抗えず、結局出場することとなる。
数か月後、スウェーデンの競技場で黙々と調整に励む絹枝。所属する新聞社からは「社宝」として送りだされたものの、通訳も専属コーチもいない、孤独な闘いに臨んだ。プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、競技をこなす絹枝。だが、ふたを開けてみれば、絹枝は100ヤード走で3位、円盤投げで2位、そして走り幅跳びでは優勝を果たす。大会が終わってみれば、個人最多得点により名誉賞まで与えられた絹枝は、世界レベルの外国選手を相手に堂々の結果を残したのだった。
スウェーデンから帰国した絹枝を、国民は熱狂で迎え入れた。絹枝は毎日新聞社一社の宝ではなく、日本を代表するスター選手となったのだ。そんな絹枝に、再びオリンピック出場の声がかかる。今度は2年後にオランダ、アムステルダムで開かれるオリンピック。試験的に女子選手の参加を一部認めたこの大会に、絹枝は万全の体制で臨んだ。だが、優勝を期待されていた100mで、まさかの準決勝敗退。日本の女性スポーツの道を切り開いてゆかねばならない自分が、国民の期待を裏切って手ぶらで帰ることは許されない。絹枝は藁にもすがる思いで、一か八かの賭けに出た。一度も練習したことのない800mに出場を申し出たのだ。「経験のない800mに出るなんて無謀だ。恥の上塗りになる」反対する周囲を尻目に、絹枝は800mのスタートラインに立った。壮絶な戦いだった。ゴールした瞬間、絹枝は気を失って倒れた。朦朧とする意識から目覚めた時、絹枝は空にはためく日章旗を見た。初出場の800mで堂々の2位を果たし、誰も想像し得なかった銀メダルを獲得していたのである。そしてこのメダルが、日本人女性が初めて掴んだオリンピック・メダルとなった。
オリンピックから帰国した絹枝は、日本女子スポーツ界発展のために、講演会や後進の育成に飛び回った。再び国際大会へ出場を打診される絹枝。だが、自分一人で、日本女子スポーツの看板を背負っていくのは精神的に限界だった。もし挑戦をするなら、今度は勝利の喜びも、敗北の悔しさも共に分かちあえる仲間が欲しい…。1932年に開催されたロサンゼルス・オリンピック。絹枝の意志を受け継いだ9名の日本女子陸上チームが花々しく入場する中、絹枝の姿はそこになかった。絹枝はその前年、自らの使命を果たしたかのように、ひっそりと24年の短い生涯を終えていた。
「一輪の名花散って百花開く」。
絹枝と共に活躍したある男子選手は、その早すぎる死を悼み、そう語った。
競技のだけではなく、その人生、走って、走って、走り続けて、、、
日本の女子陸上界の母たる存在となった。
天才ということばだけでは言い足りない、奇跡のアスリートだと思う。
本当によくやってくれましたと感謝したい気持ちでいっぱいです。