今回の列伝は、大阪万博のシンボル「太陽の塔」を創った岡本太郎。周囲の反対を押し切り、高さ30mの会場をはるかに超える、何と70mの塔をぶち抜いた執念。既成の芸術と戦い続けた異才の人生を読み解きます。
1970年。高度成長期の日本が、威信をかけ取り組んだ史上空前の大イベント、大阪万博。その会場の中央に、大屋根を突き破り屹立する巨大建造物、「太陽の塔」。全長70メートル。腕を翼のように広げた、場違いに巨大な塔は見る者を圧倒した。この塔を創った男こそ、20世紀の日本が誇る前衛芸術家、岡本太郎。今や万博のシンボルとして記憶に刻まれることとなったこの「太陽の塔」だが、その完成までの道のりは、苦難と挑戦の連続だった。「オレは、人類の進歩と調和なんてテーマ、大嫌いだ!」
たった一人、万博のテーマに真っ向から立ち向かった男、岡本太郎。その知られざる苦悩と、挑戦に賭けた人生に迫ります。
岡本太郎を芸術家として運命づけたのは、両親だった。父親は、国民的人気を誇る漫画家、岡本一平。それに負けず劣らぬ、強烈な存在だったのが、母、岡本かの子だった。かの子は、十代から歌人、女流作家として高く評価されたが、自身の創作活動に没頭するあまり、息子・太郎の世話には、全く無頓着だった。
朝からかの子は、すぐに机に向かい、作家としての仕事に打ち込む。まだ甘えたい盛りだった太郎が邪魔をすると、帯で胴を縛られ、柱や箪笥に括り付けられた。芸術を全てに優先し、世間の非難に晒されても、自分の意思を貫き、押し通す。そんな母の強烈な後ろ姿が、太郎の心に焼きついた。やがて芸術家への道を歩むことになる太郎は、母の芸術家としての魂を胸に、一人世界に対して闘いを挑んでゆくことになる。
1930年、東京芸術大学を半年でやめた太郎は、パリで画家としての活動を開始するが、日本の美術学校で学んできた基礎は、パリでは全く通用しなかった。この芸術の都では、「独自の表現」を切り開かなければ、誰にも認めてもらえない。
焦りと孤独の毎日。二年の月日が過ぎたある日、太郎は小さな画廊で人生を変える、一枚の絵に出会う。『水差しと果物鉢』。作者の名はパブロ・ピカソ。太郎は、既存の価値観にとらわれないその表現手法と、世界に立ち向かうピカソの孤独な精神に身体が震え、涙が止まらなかった。「いつか、ピカソを超える」。この時の感動が、芸術家としての太郎の第一歩となった。
それまで、考古学が取り扱う遺物としてしか認識されていなかった縄文土器を、美術の枠組みに取り込んだのは、岡本太郎が最初だと言われている。太郎は縄文土器と出会った時の感動を次のようにつづっている。「考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない、不思議なモノがあった。ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表現だった。驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ。」
太郎は従来の、弥生土器や埴輪に始まり、侘びさびへと至る「正統な」日本の美術館をくつがえし、原日本的な、あるいは人類に普遍的に存在する、生々しい生命力を取り戻そうとした。自分がパリで吸収してきた、西洋的な美でもなく、これまで日本で尊ばれてきた侘びさびなどの権威づけられた美でもない、新しい芸術の形。それを探し求める旅が、太郎にとっての縄文土器だったのかもしれない。
1960年代、日本は各地で開発が進み、高度経済成長に沸いていた。1965年の東京オリンピックに続く、国家の一大イベントとして日本全土を熱狂させたのが、1970年の大阪万博であった。万博開催の3年前、太郎のもとに思いもよらない依頼が届く。「万博のテーマ・プロデューサー」に抜擢されたのだ。太郎に依頼されたのは、会場のメインゲートを潜った先の正面スペース。最も目立つこの場所を使って、万博の意義を謳う、テーマ展示を請け負ってほしいという依頼だった。しかし太郎は万博のテーマ「人類の進歩と調和」に猛然と噛みついた。「何が進歩と調和だ!縄文土器のすごさを見ろ!今の人間にあれが作れるか」、「皆が妥協しあって60点で満足する調和なんて、卑しい」。
万博は世界の祭であるべきはずなのに、先進国だけが持つ技術力をもって、人類全体があたかも進歩したように称する・・・その安易さが、許せなかった。
そこで太郎は、人類の進歩を象徴する万博の一大建造物「大屋根」を、原始のエネルギーに満ちた異形の塔でぶち抜こうと考えた。大屋根の設計は、モダニズム建築の巨匠、丹下健三。二人の巨匠のどちらが折れるか・・・委員会には緊張が走った。しかし太郎には確固たる信念があった。近代的な会場に、あえて原始的な造形物をぶつければ、世界のお祭という万博のテーマをより際立たせられる。会議では繰り返しその意図を主張し、どんな代案にも応じなかった。1970年3月、万博会場を訪れた人々を迎えたのは、大屋根をぶち抜く「太陽の塔」だった。まるで原始の世界からやってきた様なモニュメントの頂上には、人類の未来を見つめる「黄金の仮面」が輝いていた。「進歩ばかりに目を奪われてはならない」太郎は、根源的な世界から未来へ向かう、人類の壮大な営みを、巨大な造形作品で現したのだった。
信念を決して曲げない男なんだよ。
自分のアイデンティティを貫く!
相手が、天下の丹下健三であっても、ひるむことなく何が何でも初志貫徹!
僕も役者として見習いたいよ。
私が子どもの頃の岡本太郎の印象は、“ちょっと変わったおじさん”でした。しかし、その独特の眼差しや雰囲気には、太郎の内に秘める感情が溢れて出ていて、作品と同じように爆発していたのですね。生まれながらにして天才だったのではなく、そう呼ばれるに至る背景には、幼少期に母から十分に愛情を注がれなかったこと、パリに留学して経験した挫折など、様々な苦難を乗り越えて導き出された太郎なりのスタイルがありました。頑な信念が太陽の塔を生み出したエピソードには、感銘を受けました。人生の中で絶対に譲ってはいけない、貫かなくてはならない時があるのだと教えられた気がします。