漫画家 里中 満智子
竹久夢二は岡山に生まれますが、詩人を目指して上京。そこで雑誌に投稿した絵が評判となり、挿絵を描くようになります。夢二が生み出す作品は、甘く、切ない恋にまつわる詩や挿絵が多くを占めていました。そのどれもが夢二自身が身近に出会った女性たちを思い、綴ったものです。当時の女学生たちは、そんな夢二の詩と絵の世界に自らを重ね合わせ、夢二人気はますます高まっていきました。そんな頃、夢二は一人の女性に恋をします。目の大きな美人、岸たまき。一目惚れした夢二は毎日店に通い、出会って2ヶ月で結婚します。夢二が27歳の夏のこと。たまきと2歳の息子を伴って旅行をした時です。たまたま同じ地に来ていた長谷川カタ(当時19歳)と出会うのです。親しく話すうち彼女に心惹かれ、二人はつかの間の逢瀬を楽しみにするようになります。しかし、結ばれることのないまま、夢二は家族をつれて帰京。その後カタが嫁いだことを知った夢二は自らの失恋を知るのです。そして海辺でいくら待ってももう現れることのない彼女を思い、悲しみにふけったといいます。宵を待って小さな花を咲かせるマツヨイグサに心を寄せ、実らず恋を憂う気持ちを詩に綴りました。「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき」この詩は明治45年に発表され、さらに音楽家・多 忠亮が曲をつけて、夢二の表紙画で楽譜が出版され、たちまち日本中に広がり多くの人の心を捉えて口ずさまれ、後々まで歌い継がれる不朽の名作となったのです。道ならぬ恋が、「宵待草」を生み出しました。きっとカタは、あんな風に自分を待っていたのだと。夢二が描いた「甘く切ない恋心」。それは、自らの恋心を乙女の絵に託したものだったのです。
時代は昭和。さらに少女雑誌が続々と刊行されていきます。そんな中、明治から続いていた雑誌「少女の友」に、今までとは全く違う少女の姿を描いた、新しい表紙絵が登場します。その顔は長い睫に大きな瞳。ぱっちりと開いた目の表情は生き生きとしています。描いたのは、後に女性たちのカリスマと呼ばれ、一世を風靡した中原淳一。姉たちに囲まれて育った淳一が、幼い頃から親しんだのが、西洋人形でした。淳一は15歳の時に香川から上京、日本美術学校へ入学し、西洋絵画を学びます。入学してしばらく経ったある日、少女雑誌の編集者に偶然声をかけられ、挿絵や表紙絵を描くことになるのです。淳一の描く少女の顔は、長いまつげに大きな瞳、まるで西洋人形のような顔立ちでした。
当時、少女雑誌の挿絵は、浮世絵の流れをくんだ日本的な絵が主流。そんな中で淳一の絵は新鮮な驚きを持って迎えられ、人々に強いインパクトを与えたのです。しかし戦争の足音が近づき、昭和13年、国家総動員法が発令されると、出版物への規制が厳しくなっていきました。淳一が描く、西洋の香り漂う少女像は、国民の士気高揚にふさわしくないと、軍部から掲載禁止命令を受けてしまうのです。毎日雑誌社には、淳一の絵を使わないようにと圧力もかかりました。そして雑誌の仕事を降板させられ、自らも兵士として召集された淳一は、終戦まで絵を描くことはありませんでした。読者からは、何故淳一の絵が載らないのか、早く掲載して欲しいという抗議文が殺到したといいます。
1945年 終戦。淳一の目の前に広がったのは、一面の焼け野原となった東京の風景でした。人々の生活は貧しく、毎日の食べ物すらままならない日々。少女たちの目からは、夢や憧れが消えてしまっていました。そんな姿を見た淳一は、自らが作る新しい雑誌の発行を決意、再び絵を描き始めます。紙は闇市を駆け回ってかき集め、徹夜で準備が進められました。そして終戦の翌年、雑誌「ソレイユ」が本屋の店頭に並びます。「ソレイユ」とは、フランス語で太陽、ひまわりの意味。淳一はこう言っています。「こんな本は下らないと言われるかも知れない。お腹の空いている犬にバラの花が何の食欲もそそらないように。然し、私たちは人間である!!窓辺に一輪の花を飾るような心で、この「それいゆ」を見て頂きたい。」そして淳一の描く少女の絵も、戦前と戦後では大きく違っていました。それは淳一の絵の特徴となっていた、大きな瞳。戦後の目はきりっとつり上がった眉と瞳、アイラインも引かれ、くっきりとした表情で描いています。なぜこのような姿に描いたのかー?街にはもんぺ姿の人々、闇市に叢がる人々がまだまだいる中で、淳一はあえて、心の豊かさを持って欲しい。夢を失わずに生きて欲しい。その手助けとしてこの雑誌があるのだと高らかに宣言したのです。少女たちに込められたのは、そんな淳一の強いメッセージだったのです。中原淳一の美学。「女性たちよ、美しくあれ」。今はどんなに苦しくても、新しい時代の幕は開けたのだ。女性たちよ、前を向いて美しく生きて欲しい・・・。その思いを少女の絵に託したのです。
乙女たちの心をとらえ続けた夢二の作品。その作品の多くが、夢二の愛の遍歴の証でもありました。中でも、彼の心を狂おしいほどに燃え上がらせる、運命の女性がいました。笠井彦乃18歳。美術学校で日本画を学ぶ学生で、控えめで古風な日本美人。夢二は、都会的で自立したたまきとは全く違うタイプの彦乃に、たちまち惹かれていきました。この頃2人をつなげるものは手紙。互いにラブレターを送り合い、気持ちを確かめていました。彦乃と結ばれた夢二は、彼女を親元から連れ出し、京都に家を構え、彦乃をモデルに次々と絵を描く日々…。芸術と愛に包まれた至福の一時でした。しかし、そんな幸せな日々は長くは続きませんでした。2人の生活は9ヶ月で突然終わりを告げます。厳格な彦乃の父は子供もいる夢二との関係を許さず、二人は引き裂かれたのです。さらに、彦乃はこの時すでに結核を患っていました。彦乃は長い闘病生活の末、25歳の短い生涯を終えます。その頃の夢二の作品「黒船屋」。透けるように白い肌と憂いに満ちた瞳。何かに耐えるような表情が描き出されています。そして目を引くのは、画面中央に描かれた黒猫。極端に大きく、長いしっぽを女性に絡めるようにし、しっかりと抱きしめられています。夢二は自らの姿を黒猫に変え、彦乃に抱かせることで、その思いを遂げようとしたのかもしれません。夢二はその後も、彦乃の面影を追い求め、その熱い恋心を糧に、描き続けました。
「それいゆ」は爆発的に売れ、淳一は「それいゆ」に続いて「ひまわり」「ジュニアそれいゆ」など次々に雑誌を創刊していきます。様々な年齢層の女性たちにターゲット合わせ、掲載する内容も変えるなど工夫しました。「ジュニアそれいゆ」には、学校に着ていく毎日の服のコーディネート、限りあるアイテムの中でどうやって着回していくか、など様々な情報が詰まっていました。そんな淳一を悲劇が襲います。多忙を極める中、心筋梗塞で倒れてしまうのです。淳一が療養生活を強いられている間、時代は大きく変貌を遂げていきます。高度経済成長とともに物の溢れる時代へ。女性たちの暮らしもまた変わりつつありました。そして、中原淳一57歳、病を押して人生最後となる雑誌を創刊します。「女の部屋」。創刊号に掲げたテーマは、「幸せとは」。淳一は創刊にあたり、こう宣言しています。「今はお金さえ有れば、何一つ手に入らないものはない時代になり、そればかりか必要以上にデラックスなものへ、憧れはむけられている、・・・。それならば、これからの私が女性に願う事は何なのだろう、と一つ一つ整理して、「女の部屋」をつくり上げてゆきたいと思っています。」“豊かになった時代だからこそ、女性としての本当の幸せとは何かを考えて欲しい。”戦前から戦後、そして現代へ。中原淳一は、同時代を生きる女性たちにメッセージを発し続けたのです。
今回の日比野の見方は、個人的には一番ヒットしました!女性が内包しているしぶとさをむき出しにされた気分です。竹久夢二の絵はとても印象的ですね。あのフニャ〜としたシルエット。絵を描くために恋をしていたともいえる私生活ですが、絶えず女性がそばにいたからこそ、どんな女性でも持っている夢見る気持ちを表現できたのかもしれませんね。一方の中原淳一、こちらは女性の憧れを表現。戦後のモノがない時にあえてセレブなライフスタイルを提案したところに中原の勇気が感じられます。希望こそが力になりますね。2人とも男性でありながら、怖いくらいに女性の心をしっかりとらえています。