女優 檀 ふみ
シューマンが作曲した「トロイメライ」誕生のきっかけは今から約180年前にさかのぼります。当時ピアニストを目指していたシューマン青年はピアノ教師ヴィーク氏を訪ねます。そこで出会ったのが9歳年下の愛娘クララ。9歳にして演奏会デビューを果たし神童としてその名をとどろかせていました。そんなクララは父の弟子となったシューマンを兄のように慕い強い絆で結ばれ、二人は恋に落ちるのです。しかしまだ音楽家として無名なシューマンと娘クララの交際をヴィークは認めずクララをウィーンへ引き離します。そんな中でシューマンは自らの変わらぬ愛の証としてクララに贈ったのがトロイメライでした。実はこの曲は13曲からなる「子供の情景」というピアノ曲集の1曲。作曲のきっかけはクララの手紙の一節にあった「私はときどき子供のようにみえるでしょ」。幼い頃から見続けてきた恋人を想いだしてシューマンは作曲にとりかかったのです。夢のように幸せだった二人の思い出を回想するかのような曲調、そしてクライマックスにはクララを意味する旋律(CLARAのドイツ語音名でCAAという音符にした)を密かに織り込ませ自らの愛を吐露したメロディ…。遠く離れた地で楽譜を受け取ったクララはシューマンの愛の深さを感じ取り絆を更に強固なものにします。そしてその2年後、二人は晴れて結婚することになるのです。
シューマンがクララと結婚して13年、指導的立場となったシューマンのもとに20歳の無名の新人、ブラームスがやってきます。ブラームスの演奏を聴くや否やシューマンは絶賛し、ブラームスもシューマンを師と仰ぎます。こうしてシューマン家と交流を結ぶことになったブラームスは、師の妻である14歳年上のクララに恋をしてしまいます。公にできない、でもこらえきれない思いを綴って密かに手紙を送る日々が続きます。しかしそれから3年後、恩師シューマンが他界。落胆するクララの姿に死してなお彼女の心の中に居続ける恩師の存在を感じシューマンは悩みます。そんな長い年月を経て、27歳になったブラームスが思いのたけを綴りクララに捧げたのが、「主題と変奏曲」でした。段階的にじわじわと上昇しながらも一気に急降下する旋律を繰り返す構成は、ひたむきに愛する想いと、しかしそれでも報われずに突き落とされてしまうブラームスの心情が現れているかのようです。そして変奏するたびに音数が増えエスカレートする曲調は、ブラームスの鼓動と重なるかのよう…。募る想いと決して結ばれないことを悟った現実、その叶わない不変の愛を、「主題と変奏曲」に託したのです。
シューマン作曲・「子供の情景」にはもう一つのメッセージが込められていました。その謎を解くのが最後の楽曲「詩人は語る」。それまでの12曲には「おねだり・鬼ごっこ」など子供ならではのタイトルですが、そんな子供の世界をシューマン自身が詩人となって語っているのです。そこにシューマンは、幼い頃の恋人を想い出して作曲しただけでなく、「愛するクララと子供に囲まれた理想の未来の情景」をクララに向けて語っていたのです。
実際にシューマンはクララと7人の子どもと幸せに暮らしますが、その僅か14年後、精神の病で亡くなります。そんな恩師の臨終に立ち会ったのがブラームスでした。その時自身の中でクララへの愛情が大きく変わります。自らが抱いていた恋愛と夫婦の愛が違うと悟ったのです。そんな気持ちの変化の中で作ったのが「主題と変奏曲」でした。実はこの曲には「弦楽六重奏曲」という原曲があります。それをクララのためにピアノ曲に編曲した時、大きな変更を加えていました。それがバスの音。あえて一オクターブ下げて重低音の響きを強調し曲に安定感を持たせました。そこにはブラームスの「地に足のついた気持ちで生涯支えていくよ」という更に高い愛の形に昇華させた、クララへのもう一つのメッセージがあったのかもしれません。その後クララはシューマンの妻として生涯をまっとうし、ブラームスは独身を貫くことになります。
シューマンとブラームスから楽譜を贈られてクララが鍵盤でその調べを弾いています。音楽は恋文である楽譜を自分で弾いて再現し確認できるので、自らの想いの変化によって変えていくこともできます。音楽家は恋をしないと作曲できないのではなくて、音楽が恋を伝えるのに適したメディアなのかもしれません。
女性に歌をプレゼントする、ってロマンチックですよね!シューマンとブラームスが同じクララという女性に贈った曲なのにもかかわらず、全く雰囲気がちがいます。甘ーい恋のメロディの「トロイメライ」に対し「主題と変奏曲」の方は、私には真っ暗闇を匍匐前進しているイメージに聞こえました。曲調でそれぞれの関係が想像できますね。クララという女性は美しいだけでなく、教養と才能もあり、男性にはビシビシと物言うタイプだったようです。クララに評価されたいという思いが、シューマンとブラームスという二人の偉大な作曲家の原動力のひとつになっていたのは間違いなさそうです。