#17
浮世絵大首絵
2014年1月29日(水)放送
岡田美術館館長 小林 忠
浮世絵の歴史を変えた「大首絵」
江戸時代、風俗を描いた浮世絵は、1枚、お蕎麦一杯ほどの値段で買える庶民の楽しみだった。そんな浮世絵が、二人の絵師によって大きく変わる。喜多川歌麿と東洲斎写楽である。二人は、「大首絵」というジャンルを確立した。大首絵とは、半身やバストアップなど顔を大きく描いたもの。歌麿は、それまでの美人画が全身で描かれていたのを、大首絵で美人画を描いて、スター絵師に上り詰めた。写楽は、歌舞伎役者を大首絵で描いた。役者絵は、今でいうブロマイドなのに、彼の役者絵は、役者の顔を誇張して顔の特徴をあからさまに描いていた。二人の大首絵は、革新的な人物画として、浮世絵の歴史を変えた。そして、二人の絵は、約100年後には、ヨーロッパで認められ、肖像画の世界に大きな影響を与えたのです。
喜多川歌麿の「美人大首絵」
老中・松平定信によって行われた寛政の改革は、「質素倹約」「華美まかりならぬ」というもの。それは、浮世絵にまで規制が及んだ。それまでの美人画は、全身を描くのが常識だった。規制をくぐり抜け、なおかつインパクトのある美人画を描くために、歌麿は、吉原の遊郭に通い、女性の仕草や表情の観察をした。そして、生まれたのが、女性を半身で描いた美人画の大首絵。顔をアップにして、細密な線で色香を表現した。「浮気之相」では、肉感的な顎の線や、ほつれ毛に女らしさを込めた。そして、さらに顔を大きく描いた歌撰恋之部シリーズでは、女性の物語を表現する。女性の内面までを描いた奇跡的な作品が出来上がった。特に「物思恋」は、一人の女の恋の物語を描いて、歌麿の最高傑作とも評されている。
東洲斎写楽の「役者大首絵」
歌麿と同じ寛政期に10か月だけ活動して、忽然と姿を消した謎の絵師・写楽。写楽は、デビューの時、28枚もの歌舞伎役者の大首絵を一斉に出した。それは、驚くべき人物画だった。ふつう役者を美しく描いて、ブロマイドとして買ってもらう役者絵なのに、写楽が描く役者絵は、当代の人気役者・菊之丞が演じている「おしづ」を見ても、女形であるにもかかわらす、目の上のシワ、受け口、鷲鼻をそのまま描き、男が演じていることがわかるように描かれていた。写楽は、顔に役者のリアルな個性を描いたのである。それは、役柄と役者の素顔を二重焼きしたものだった。臨場感を出すために、黒キラと呼ばれる雲母を混ぜた墨の顔料を背景に塗り、当時の暗い舞台で役者の顔が浮かび上がって見えるように演出した。さらに、舞台で対峙する二人を描き、殺される役の役者だけでなく、殺す方の役者でさえ、人生の哀感を感じさせた。写楽は、発売当時、江戸庶民を驚かせはしたが、あまり評価されたとは言い難い。しかし、明治の末にドイツの美術評論家ユリウス・クルトが写楽の研究書「SHARAKU」を出版し、それを契機に写楽は日本でも評価されるようになった。
日比野の見方「江戸の庶民の見る力が
大首絵を生んだ。」
僕は、いわゆる蕎麦一杯で買える庶民の文化である浮世絵において庶民の見る力がアップしてきた。より高度になってきたんだと思うんですよね。見る力が、変化した。それがこの大首絵の画の力というよりかは、大衆の、民衆の見方が。こういう大首絵を求めたからこそ、大首絵が生まれてきたのかなと。
小林忠の考える「大首絵」の絵師、歌麿と写楽
歌麿、写楽が活躍した寛政年間というのは大変暗い時代なんですね。町人社会からすれば抑圧されていた時代。改革時代に入ってみんなが委縮しちゃうときに、なにくそっていう。反骨のポーズをとったのが蔦屋であり、蔦屋の起用した歌麿、写楽だったと思うんですね。江戸庶民を代弁する二人の天才だったと思いますね。
小川知子が見た“巨匠たちの輝き”
浮世絵の中でも腰から上を描いたものが「大首絵」。全身に比べてポーズや顔の表情がはっきりする分、物語が深まりますね。するどい視線、ちょっとした手の表情、ほつれた髪、落ちそうなかんざし、など想像が膨らみます。ところで「美人画」と言われますが、描かれている女性の目も口も極端に小さくどれも似た顔に見えませんか…と何度も質問してゲストの小林忠さんを困らせてしまいました。当時の“美人”とは自然の風景の一部のようなもので、今の時代の目鼻立ちの整った“美人”とは意味合いが違うそうです。今でも立ち姿やしぐさが美しい人って上品ですものね。そういうことでしょうか…