#16 日本のうた 2014年1月22日(水)放送

瀧廉太郎「花」&山田耕筰「からたちの花」

瀧廉太郎 写真提供:瀧廉太郎記念館
山田耕筰 写真提供:日本楽劇協会

ゲスト

作曲家 千住明

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歌い継がれる「日本のうた」

瀧廉太郎と山田耕筰。日本の音楽黎明期と言われる時代に登場し、今なお口ずさまれる名曲を残した巨匠です。桜咲く春の情景が、美しいハーモニーで歌われる「花」。瀧廉太郎が、この曲を世に発表したのは20世紀を迎えようとしていた明治33(1900)年のことでした。開国以来、急速に取り入れられた西洋文化は、音楽の世界にも変革をもたらしていました。邦楽、民謡などに代わり、ドレミの音階や洋楽器がやって来て新しい西洋的な音の響きが人々に広まりつつあった日本。そんな過渡期であり現在に続く音楽の黎明期に新しい「日本のうた」の方向性を打ち出そうとした歌でもあったといいます。いっぽう山田耕筰。瀧と同じ明治時代に音楽の道を歩み始め、東京音楽学校の後輩にもあたります。いち早く世界に飛び出し、交響曲、オペラなどを学んでいた山田耕筰。そんな山田が、瀧の「花」から25年後に発表したのが「からたちの花」でした。優しく、語りかけてくるような旋律が深い印象を残す名曲。それは世界を知る巨匠が「日本語のうた」とは何かを考えた集大成でもありました。100年近い歳月が過ぎてなお歌い継がれる「日本の歌」。その魅力に迫ります。

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瀧廉太郎の「花」

明治時代の日本は、西洋の音楽に倣い、これを人々に浸透させようと「唱歌」による教育が熱心に行われていました。歌によって身近になっていたドレミの音符や音楽。しかし、音楽文化は発達し始めたものの、実は曲の大半は西洋から借りて来たものに、日本語詞を新しく付け替えたものという状況。こんな替え唄のようなものでは、原曲の味まで損なう。そこで、日本人の手で西洋の進んだ音楽を使いこなし、日本のオリジナルソングを示してみよう。そんな気概溢れる思いと共に、作られたのが「花」。そのメロディは「ドレミファソラシ」7つの音を当時の日本人とは思えないセンスで駆使しており、実に画期的。その新鮮は現代にも通じ、いつの世も愛される日本情緒と、モダンな響きを兼ね備えていました。こうして今日も歌い継がれる「日本のうた」誕生となったのです。

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山田耕筰「からたちの花」

もう一人の巨匠、山田耕筰。ドイツ留学時代のこと。山田は自分が作る歌が、日本語の詞や魅力を台無しにしている事に気付いたと言います。作曲の面ではヨーロッパの最新文化を吸収していたものの、それは自分の国のうたを作るのに、そのまま役立たつようなものではなかったのです。以来、日本語のうたの作曲法に試行錯誤。そして、その成果を遺憾なく発揮した曲が「からたちの花」でした。たゆたうようなメロディと共に、1つ1つの言葉が心の奥に染みいるように響いてくる。これこそ山田独自の研究による作曲法のたまもの。歌詞を損なわぬように、ひとつひとつの言葉が持つ抑揚に従い、旋律の高低を導くというものでした。高度な音楽を会得する傍ら、日本語の美しさを活かす事を見落とさず、作曲法まで編み出した山田耕筰。自分たちに根差した音楽への工夫あったからこそ「からたちの花」もまた、歌い継がれて来たのです。

日比野克彦

日比野の見方「言葉」

日比野の見方 山の頂にある木の絵だが、その根っこの部分には「あいうえお」と「言葉」を書いた。葉っぱがゆらめいているのは、その言葉が旋律となって、西洋の建物の中で反響している様。

小川知子

小川知子が見た“巨匠たちの輝き”

瀧廉太郎作曲の「花」、名曲です。21歳のときの作曲ですから、天才ぶりがわかります。しかもあの美しいメロディは、日本初7音での作曲だったのです。一方の山田耕作作曲の「からたちの花」。日本語の自然な抑揚をメロディに取り込みました。2人とも新しいことにチャレンジし答えを出しています!かっこいいですね。ところで私は高校生のときに歌を習ったことがありまして(!!)年に一度の発表会で歌った曲が山田耕作作曲の「この道」でした。小学生のピアノの発表会の中、1人高校生が歌う音痴な「この道」。いま思い出しても赤面する記憶ですが、あのノスタルジックなメロディは山田耕作の幼少時代の経験からきていたのですね。音感だけでなく情感も足りなかったようです(^^;: