写真:ポーラ美術館所蔵
写真家 浅井愼平
江戸時代後期、様々な町人文化が花開いた文化文政の時代、1831年頃に刊行され大ベストセラーとなったのが、「冨嶽三十六景」。もともと36枚のシリーズだったが、裏富士と呼ばれる新たな絵を10枚追加するほど人気を博した。圧倒的な存在感で描いた赤富士「凱風快晴」、大自然の様子を瞬時に切り取った「山下白雨」では堂々たる富士の姿を描いている一方、なぜか多くの作品において、北斎は小さな富士にこだわっている。実はそこには遠くから見守ってくれる存在としての富士山が表現されていた。古来より神の山として信仰され、江戸時代には富士講が流行するなど富士に救いを求める人々が多かったこと。そして北斎自身、様々な不幸が襲いかかる波瀾万丈の人生の中で富士を心の拠り所と考えたこと。その想いが秘められていたのが小さな富士山だった。
冨嶽三十六景が発売されてからおよそ40年。明治時代になり文明開化の波が押し寄せると日本の美術に大きな変化が訪れる。明治20年東京美術学校が開校し、日本画科の第一期生として入学したのが横山大観だった。当時、西洋化が国策として進められる中で洋画が台頭し、大観は日本画の復興を誓う。”我日本画をしてその奥を究め妙を尽くし遂には世界に独歩足らしめん”。暗中模索の中で、立山に登った大観に、大きな転機が訪れた。そびえ立つ富士山の姿に感銘を受け、これこそ自らの芸術にふさわしい生涯の主題だと直感したのだ。”富士はいついかなる時でも美しい いわば無窮の姿だからだ 私の芸術もその無窮を追う”その後、猛烈な勢いで描き始め、何十、何百枚と描き続ける中で大観がその集大成として完成させたのが「海山十題」だった。そこで会得した境地とは、自らの心の中にある富士山の風景を描くこと。それこそが永遠に在り続ける日本の美だった。
冨嶽三十六景には北斎の絵師としての貪欲さが秘められている。北斎は代表作・神奈川沖浪裏を制作する際、その表現を劇的に飛躍させるために、西洋画の手法を取り入れたのである。鮮やかで色落ちしにくくグラデーションが綺麗に出るベロ藍。そして分回しと呼ばれるコンパスを多用し、19もの円を使ってダイナミックな構図を作り出したのだった。冨嶽三十六景は実は北斎の画業の頂でもあったのだ。一方、昭和15年に発表された海山十題の1つ「乾坤輝く」には日輪が掲げられ、強力な国家の象徴としてもてはやされるようになった。実は美しい作品の裏に戦争絵画としての側面があったのだった。しかし戦後、大観は変わることなく富士を描き続け、「或る日の太平洋」を完成させる。そこには荒波を乗り越えて突き進んでほしいと戦後日本への願いが込められていた。
この絵の中の、小さな富士は色んな視点から描いた北斎の富士。中央にどっしり1つ聳えているのが時代に巻き込まれた大観の富士。どちらが私たちに近いか遠いか分からないけれど、宇宙に繋がっているように感じた。
富士山が 新幹線や飛行機、高速道路から見えると スッキリした気持ちになりますよね。江戸時代の葛飾北斎、昭和の横山大観、2人の画家は富士山をどう描いたのか?時代によって富士山の位置づけが変わっているのがよくわかりました。日本人にとって特別な存在の富士山ですが 現代アートではテーマに富士山を選ぶことはなかなかないそうです。確かに小さい子でも富士山はかけますし、古来より取り上げられていて新しい切り口を見つけるのも難しいですし 富士山の象徴するものとテーマのバランスもあるのでしょうね。富士山は“いつもそこにあるもの、でも向き合うには覚悟がいる”ということでしょうか。